「オオ、山吹さまだ」漁師たちは、その女性(にょしょう)をよく見知っていた。
驚いた顔つきで、口々に、
「このお方は、お陣屋のお側妾(そばめ)さまだが――お上人様――どうしたわけでございます」
「わしも知らぬが……ふとすれちごうた折に、ぞっと、わしの心に寒いものが触れた。この女子(おなご)は死に場所をさがして歩いているな――と、こう感じたゆえ、呼びとめると急に走り出した」
親鸞は、漁師たちが、好奇な眼をあつめて、泣き伏している彼女をながめているので、
「――だが、それはわしだけの考えたこと、間違うているかも知れぬ。おことたちは、仕事もあろう、どうか退(の)いてくだされ」
彼が頼むようにいうと、
「そうだ、わしらはきおれから沖へ出にゃならぬ。ではお上人様――」
一人一人が、ていねいに頭を下げた。
そして漁船へ乗ると、やがて、後ろの浜辺には、親鸞と――山吹とよぶその女性と、二人きりになった。
「ここは風があたる」
親鸞は、山吹を導いて、砂丘の陰へ歩いて行った。
「坐りなされ」といって、自分も坐る。
うしろは砂丘にかこまれて、晩春のあたたかい陽に静かに抱かれている。
山吹はくずれるように、砂へ坐って、さし俯向(うつむ)いた。
「お坊さま、あなたは竹内の配所へ来ていらっしゃる都の上人様ですか」
「そうです、親鸞といいます」
「元は善信様と仰っしゃいましたね」
「ご存じか」
「吉水の禅房で、一、二度」
「それで思いあたりました。どこかでお見かけしたように思われたのは、都であったか。それでは、吉水の房へ、聴聞に来られたこともあったのじゃな」
「まだ私が京都にいた折、しきりと、念仏はよいものと、町の衆がうわさしますので、おもしろ半分に――」と、いって、あわてて、
「人に連れられ、見に参ったことがございました。その折、あなた様の御法話をうかがいましたので」
「それで、わしの眼にも残っていたものとみえる。――あなたは、その折、他人(ひと)が念仏にゆくので、流行(はやり)ものでも見るような気持で参られたのであろうが、そういうかりそめの人にさえ、御仏はきょうの慈縁を結んでくだされた」
「ほんとに……」
と山吹は初めて、沁々(しみじみ)と、親鸞のことばに耳を傾けだした。
「――もしわしが、あの時、おん身を振り向かずに、そのまま行き過ぎてしもうたら、あなたは、ふたたび明日の陽を見ない人だったでしょう」
「そうです、仰っしゃるとおり、きょうこそは、死のうと覚悟して、家へ遺書(かきおき)まで残して出てきたのでございました。――ですが、上人さま、ただ私とすれちごうただけで、どうして私が死ぬ気持でいたことが、あなた様にはわかりましたか」
「わからなくてどうしましょう。おん身のたましいも、わしのたましいも、人間のたましいに二つはありません。ひとつものであるのです、自他無差別、本来無垢、澄みとおって純なるものです。
――ただそれが肉体というものの、貌容(かおかたち)とか、身装(みなり)とか、うわべのものにつつまれているので、おん身とわしとが、べつな者に見えたり、敵に思われたり、憎んだり、嫉(ねた)んだり、あらゆる愛憎の霧がかかってきて、そこに他人という観念が起って参るに過ぎません。自分という我執もそこからわいてくるしの……」