『迷信を打ちくだくものは仏の智慧である』(後期)

 ある御門徒の方からこんな話を聞きました。

 その人がかなり高価な念珠を買ったそうです。

 ところがそんなに使用しないのに念珠の紐が切れて使用できなくなったので、買った仏壇店に文句を言いに行ったところ、そこの店主は

 「あなたは運が良かった、この念珠があなたに降りかかるかもしれなかった悪運をもっていってくれた。もし紐が切れなければ、きっとあなたに何か悪いことが起きたことだろう。あなたは運が良かった」

 と言い訳されたそうです。

 笑い話としては面白いですが、なんの根拠もないことです。

 親鸞聖人の和讃に

 「かなしきかなや道俗の

 良時吉日えらばしめ

 天神地祇をあがめつつ

 卜占祭祀つとめとす」

 「かなしきかなやこのごろの

 和国の道俗みなともに

 仏教の威儀をもととして

 天地の鬼神を尊敬す」

とあります。

昔から仏教者と言いながら、占いなど、お釈迦さまの教えではないものを物事を決める根拠にしたり、判断の拠り所としてきました。

全く悲しいことです。

こんな話を聞きました。

ある若者が交通事故を起こしました。

植え込みのある歩道からお年寄りが乳母車をおして車道に出てきて、その乳母車をはねてしまったそうです。

その若者に車のセールスマンが来て「あなたの車は何か悪い因縁がある、車を買い替えないか」と言ってきたそうです。

彼は

「僕はこの車を買い替えるつもりはない。事故は車の所為ではない。自分の不注意だから、そのことを忘れないためにもこの車に乗り続ける」

と、断ったそうです。

正しいい因縁の智慧、仏様の智慧。

車が事故を起こすのではない。

運転する人間の不注意が事故を起こすと、明白な正しい因縁の智慧です。

友引に葬式をすると死人が出る。

なんの根拠も因縁もありません。

そんな迷信が私たちの周りにあります。

仏の智慧をいただいてそんなものに振り回されないように生活したいものです。