『迷信を打ちくだくものは仏の智慧である』(中期)

現代はどのような時代かというと、「科学の時代」と言い表すことができます。

では、その科学の対極にあるのは何かというと「迷信」です。

明治以降の日本人が受けている教育は、事実のみに基づいて論証を進めようとする科学的なものの見方・考え方を基本に置いています。

そうすると、今の日本人の誰もがそのようなあり方の教育を受けているのですから、当然「現代の社会から迷信は跡形もなく消え去った」と言えそうなものですが、依然として迷信は私たちの生活の中に根強く残っています。

浄土真宗の教えの特色として先ず挙げられるのが、迷信的な要素を持たないということです。

浄土真宗のご門徒は、世間一般の人びとが日や方角の吉凶などによって決め事をしているのに対して、一切気にしない生活を営んでいたことから、「門徒物忌み知らず」という言葉で表現されてきました。

浄土真宗の教えを顕かにされた親鸞聖人が生きられたのは、平安時代の末期(1173年)から鎌倉時代の中期(1263年)です。

この時代には、現代の私たちが持っているような科学的な知識はまだなく、したがってなぜ地震が起きたり台風が襲来したりするのかといったことや、大気・水・土壌・動物(人も含む)などに存在する病原性の微生物が人の体内に侵入することで感染症が引き起こされることも、雲の下の方に集まったマイナスの電気と地表に集まったプラスの電気とが中和しようとして電気が飛んでいくことによって落雷が発生するというメカニズムについても分かりませんでした。

そのため、人びとはそれらの現象が起きると「天変地異」と理解し、ただただおののくと共に平穏なる世の中であれかしと神仏に祈りを捧げる以外に手立てはなく、常に見えざるものに対する空間への畏れにさいなまれていました。

そのような人びとにとっては、日の吉凶や方角の善し悪しに注意を払うことは、むしろ当然の営みであり、現代の私たちが迷信と考えていることが実は当時の科学であったと考えられます。

ところが、そのような時代環境の中にありながら、親鸞聖人は現代の私たちが有している科学的な知識がなかったにもかかわらず、迷信的なことに陥ることは一切ありませんでした。

一方、科学の時代を生きているにもかかわらず、私たちは依然として様々な迷信に振り回されています。

それは、いったいなぜなのでしょうか。

現代は「知識基盤社会」と位置付けられています。

そして、その社会を生き抜くための力として、次の3つが求められています。

1つめは、国際的視野を持つこと。

政治・経済など、これまで存在した国家・地域など一地域だけでなく、縦割りの境界を超え地球全体でものを見ることが求められています。

2つめは、情報を収集・分析する力を持つこと。

世界は、従来の情報処理ソフトでは処理が困難なほど巨大で複雑な情報に満ちあふれています。

そこで、それらの情報を収集・取捨選択・保管・検索・解析・可視化する能力が求められています。

3つめは、国際的視野を持ち、収集・分析した情報を使いこなす技術力を持つこと。

どれほど多くの情報を収集・分析しても、それを現実の社会で活用できなければ何も意味がありません。

したがって、現代の社会においては、これら3つの力を身に付けることが求められているという訳です。

そして、これら3つの力を兼ね備えた人びとによって私たちの国は牽引されているのですが、では私たちは常に現状に満足し、未来への希望に満ちあふれているかというと、そうとは言えません。

それは、これら3つの力は過去の情報に基づき、その通りに現実が動いている時には無類の強さを発揮することが可能なのですが、それ故に決定的な弱点も持っているのです。

それは何かというと「知らないことに弱い」のです。

東日本大震災が発生した後、しばしば耳にしたのは「想定外」という言葉でした。

東北地方は過去に何度か津波の被害を受けたことがあり、その情報に基づいて対策も施されていしまた。

ところが、あのときに襲来した津波は、過去の情報を超絶する想定外の規模でした。

そのため、甚大な被害が生じたといわれます。

私たちは過去の経験に基づき、そのための対応を怠ることのないよう努めているのですが、経験したことのないような事態に直面すると、そのことの前に人間の無力さを思い知らされることになります。

そうすると、私たちにとって、極めて想定し難いものとはいったい何でしょうか。

それは、私の人生ものです。

「一寸先は闇」という言葉がありますが、一分一秒後でさえ、どうなるか分からないのが私の人生です。

しかも、何かが起きた時、お釈迦さまが「代わるものあることなし」と説かれるように、私の人生は私以外に生きる者はないのですから、そのすべてを私が引き受けていくことになります。

そのため、私たちは常に時間と空間への畏れを感じながら「悪いことがおきませんように…」と願い、一年の禍福を占い、日の吉凶や方角の善し悪しなどに頼る生活に終始してしまうことにならざるを得ないのです。

これが、私たちが迷信に惑う根源的な理由だと言えます。

人生は、しばしば旅をすることにたとえられます。

そうすると、誰もがそれなりに人生の旅路を歩いておられる訳ですが、ふと「あなたの旅路は、どこに向かっておられますか」と問われて、もし返答できなければ、それは放浪の旅ということになります。

放浪とは、帰る家のない不安な旅です。

実は、人生においても「いのちの帰する世界を持たない」と、病気をしたり不都合なことに直面したりする度に、不安の影が落ちてくることになります。

そのため、人はいつの時代にあっても、あとどれだけ生きられるか分からないという「時間」と、このいのちが終わったらどこへいくのか分からないという「空間」の二つの畏れによって、迷信に惑うことになるのです。

一方、親鸞聖人は現代の私たちが有している科学的な知識は持っておられませんでしたが、「念仏せよ、必ず浄土に迎えとって仏にせしめる」という阿弥陀如来の願いの声に深く頷いておられた、言い換えると、いのちの帰する世界を確かに見いだしておられたが故に、時間・空間への畏れを抱くことなく、往生浄土の人生を自由自在に生き抜いていかれたのだと言えます。

そのため、迷信から全く自由であったのです。

このような意味で、迷信を打ち砕くのは科学ではなく、仏の智慧だということが明かに知られます。