『迷信を打ちくだくものは仏の智慧である』(前期)

インターネットを見ていたとき、あるコラムに興味深いものを見つけました。

「浄土真宗のお坊さんの何かのスイッチが入る瞬間」というものでした。

いくつか挙げますと、

・四十九日は三月(みつき)にまたがるといけない。

・友引にお葬式してはいけない。

などがあり、パソコン見ながら“たしかに”と頷かされました。

この2つだけに限らず、迷信というものはたくさんありますが、なぜ?と思われる方もいらっしゃることかと思います。

上記の2つで考えますと、

? 四十九日は三月(みつき)にまたがるといけない

? 始終、苦が身に付くといけないという語呂合わせからきている迷信。

? 月の後半に亡くなると、四十九日は三月にかかります。

? 友引にお葬式してはいけない

中国の諸葛孔明が考えた、戦の際の日の善し悪しを占う六曜の1つの共引(引き分け)が元になっている。

お葬式と関係のない迷信です。

ということからきています。

“昔から言われることだから”と思われる方もいらっしゃるでしょうが、元を辿れば、語呂合わせであったり、根拠や関係のないことから出来上がったりしているのが事実です。

根拠のないことを信じ、それらにこだわる姿は、迷っていると言わざるをえません。

生きていく上で、何を拠り所とするのかが大切なことではないでしょうか。

江戸時代の儒学者、太宰春台は

「一向宗(浄土真宗)の門徒は弥陀一仏を信ずること専らにして、いかなることありても祈祷などすることなく、病苦ありても呪術、お守りをもちいず。みなこれ親鸞氏の力なり」

と述べています。

迷信とは分かっていても、周りの影響などもあるとは思います。

しかし、自分自身が、迷信などに出会った場合でも、それに流されず、気にする必要がなくなる生き方が仏法に出遇うことなのだと思います。

浄土真宗の“み教え”に出遇い生きていく・・・迷信に惑わされることなく、確かな拠り所を心に持ち、かけがえのない「いのち」を精一杯輝かせて生きていくことが大切なことなのです。