『仏説阿弥陀経』

『仏説阿弥陀経』には、浄土にはいろいろな鳥が住んでいて、それぞれがその鳴き声において仏法を語っているということが説かれています。

これらの鳥の中に、美しい羽毛を持ちきれいな声で鳴く「共命鳥(ぐみょうちょう)」という鳥がいます。

この鳥は、体が一つで頭が二つあるという変わった鳥で「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道、他を生かす道こそ己の生かされる道」と鳴き続けているといわれます。

それは、次のようなできごとに基づくことが伝えられています。

頭が二つあるということは、思いが二つあるということです。

そのため、例えば左側の頭が水を飲みに行こうとすると、右側の頭はエサの方に行こうとします。

あるいは、右側の頭が木の枝に止まろうとすると、左側の頭が地面に降りようとします。

このように、いつも考えることがお互い食い違うものですから、その度に相手の頭を邪魔者と考えるようになります。

「もしこの右側の頭がいなかったら、自分の思い通りの生き方ができるはすだ」と左側の頭は考え、同じことを右側の頭も考えます。

そう思う内に、とうとう左側の頭が右側の頭をつついて殺してしまいました。

右側の頭が死んだので、左側の頭は

「これで、これから頭は一つだから、思いは一つ。自分の思いのままに、自由に生きていける。これからは楽しい生活が出来る」と喜びます。

けれども、胴体は一つです。

突かれて死んでしまった頭が次第に腐敗すると、やがて胴体も同じように腐敗し、その胴体に繋がっている左側の頭も結局死んでしまうことになります。

自分の利益だけを求め、邪魔なものを排除しようとした結果、自分のいのちも失ってしまったのです。

仏教では「自利・利他」ということを説きます。

自利というのは、自らの心をどこまでも仏果の方向に深めていくことです。

これは、自分が利益を得ることですが、その利益とは、お金がもうかるとか社会的地位を得るといったことではなく、自分の心が澄みきって無限の智慧を完成させていくことです。

その智慧を完成させることができればどうなるかというと、仏の道理として迷っている人を救うことができます。

それは、慈悲の成就ということになるのですが、自らの迷いを消し去るということと、他の人を迷いから救うということが常に同時的に重なっています。

このように、他の迷っている人のために、自分のなした一切の功徳をふり向けて働くことを利他といいます。

では、自利と利他とはどのような関係にあるのでしょうか。

自利をした後に利他をするのではありません。

自利をするということと、利他をするということは同じである必要があります。

なぜなら、自ら利益を得ることが自利なのですが、その利益とはまさに仏道のことだからです。

仏道は、世俗的な欲望を否定します。

したがって、自分だけが得しようとする在り方はどこまでも迷いの心であり、そのような心をどれほど積み重ねても、迷いを積み重ねるだけにすぎません。

自利の行の目的は、仏果(覚り)を得ることにあります。

そうすると、仏果を得るためには、まず他の人のためになりたいという願いが先にはたらくことが必須です。

そして、他の人のためにという願いが、自らを深めることになるのです。

このことから、自利の行は、そこに利他の心がなければ成り立たないことが知られます。

ですから、仏教者が行じる行とは、他の人のために自分は何ができるのかということのみが課題になります。

見方をかえれば、自利の行をするということは、利他の働きのみを積み重ねていくということになります。

それ故、利他に値しない自利は存在しないのです。

なぜなら、自利と利他は一体だからです。

20世紀は「戦争の時代」といわれたことから、21世紀は「平和な時代」になることが期待しました。

ところが2001年の9月にアメリカで同時多発テロが発生しました。

それ以降、「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道」であることに気付かぬ人びとによって、依然として世界の各地で悲惨な戦争やテロ事件が頻発しています。

仏教徒の一人として、せめて日々の生活において「他を生かす道こそ己の行かされる道」であることをささやかでも実践していきたいと思うことです。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。