この「念仏に遇う」ということは、私が聞いたからだとか、何かしたからということではなくて、仏さまが待ち受けていてくださっていて、出遇ってしまったという状況です。
「遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ」と言いますが、あらゆるご縁が仕向けてくださったということです。
私がこうしたからとか、一生懸命お聴聞に行ったからということではなく、まわりで全部お膳立てをしてくださって今があるのだ、と受け止めていけたら良いのです。
このことに出遇ったことを「信心」といいます。
信心のないお浄土は妄想です。
この世の中でもお浄土について色々なことを言いますが、ほぼ自分で勝手に作り上げたお浄土というものです。
でも全然違います。
その何千倍もお浄土はすばらしい所なのです。
現生は娑婆(しゃば)というところ。
娑婆は、どこまで行ってもどんなに努力しても、苦の多いところです。
インドのサンスクリット語で「サーハ」というのですが、思うようにならない所という意味です。
この仏法によって、私というものは煩悩でできておるぞ、そしてこの世界は娑婆というところだぞと気づくことができます。
だからどんなに良いことがあっても諸行無常。
良いことも消えていく。
しかし、阿弥陀さまに出遇った、これが最高の宝だということです。
浄土真宗は、親がいてくれてるその親さまが育ててくださる、この親さまのお話を聞いて、私が育っていく、ご法義に出遇っていく、そして、親である阿弥陀さまが救ってくださっている家がある。
親がいて、育ててくれてちゃんと家をつくって待っていてくれるというのが浄土真宗です。
こんな宗教はほかにありません。
私の病院では、ナースが「先生、行って、行って」と死期が近い患者がいると、早く行ってお浄土の話をしてほしいというのです。
私は、患者さんに
「阿弥陀さまって仏さまがね、必ず救うって、ビハーラの会でお坊さんが言っていたでしょう。決して落とさないと。だから、私が今、先に死んだらね、極楽浄土であなたを待ってるから必ず来てね。あなたが先だったらお浄土で待っててね。私は必ず後から追っかけるからね」
と話しかけました。
患者さんが「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を称えると真っ青だった顔がぽーっとピンク色になりました。
そして、今まで眉間にぎゅっとシワをよせて嫌な顔していたのが、とても柔和な顔に変わりました。
ナースステーションに帰り「話してきたよ」と伝えたら、ナースたちが皆で「ありがとうございます」って、私に言うんです。
なぜ「ありがとう」と言うのか尋ねたら
「患者さんにとっては極楽浄土の話しかもうないのです。お念仏の話を先生がしてくれることは私たちも本当に嬉しいです」
とそう言ってくれたのです。
私がお浄土の話をすることを喜んでくれていて、23年間ビハーラの会をやってきて本当によかったなと思いました。
中には、私が患者さんの所へ行こうとすると走ってきて、私の耳元に「先生、お浄土、お浄土」ってささやくナースもいます。
笑ってしまいます。
お浄土があることを知る。
私たちの人生における答えがこれです。
解答です。
生まれてきて、生きて死ぬということの結論です。
仏教は私の人生の解決を教えてくださっています。
何のために生まれてきたかということ。
自分1人で死んでいくけれども、お浄土があってよかったなとしみじみと噛みしめていけます。
うちの病院では『南無阿弥陀仏』というお念仏が全然違和感がありません。
「お浄土」もそうです。
天国という表現ではなく、お浄土といっています。
精神科の医師で「ちょっとお浄土に行ってきます」と言って、外来のナースステーションによく出かける医師がいます。
そこではお菓子やお茶が出て、悩みをきいてくれるので、お浄土と呼んで立ち寄るのです。
あの先生どこに行ったのかなという話題になればみんなが「ああ、またお浄土じゃないの」って。
笑いながら話すのです。
かくして、うちの病院には“お浄土”があるのです。
今日は、出世間の話をしました。
「摂取不捨」という功徳満載(くどくまんさい)の阿弥陀さまのお話をお互いに喜び「南無阿弥陀仏」とお念仏を称え、阿弥陀さまにお礼を申しあげましょう。