浄土真宗本願寺派の『宗報』1月号に、伝灯奉告法要が営まれた昨年10月20日から同27日、11月5日から同11日(4日は未実施)の15日間の法要参拝者に、宗門伝灯奉告法要総務本部総務室の職員が面接し、418人から回答を得たインタビュー調査の結果が掲載されました。
この法要にそのものついては、96%の方から「参拝して良かった」という回答を得られ、高い満足度が示されたものの、法要の前に行われる法話に「心を打たれた」という人の割合はわずか1%でした。
浄土真宗では、座禅や難行苦行といわれるような特別な修行はしませんが、あえて「仏道としての行とは何か」と問われると、それは「仏法を聞くこと(聞法)」と答えることができます。
その「聞法教団」における生命線ともいえる「法話の聴聞」への満足度が、法要参詣者においてわずか1%だったというのですから、私たちの教団は今まさに危機的状況にあると言い得ます。
「伝道教団」を標榜する本願寺派では、法要の規模に関わらずその際には必ず法話が行われています。
2011年から2012年につとまった宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要でも、2016年の秋から2017年の初夏にかけてつとまる今回の伝灯奉告法要でも、法要が始まる前に布教団連合や各教区布教団の役員を務めるベテラン布教使の方々によって法話が行われるのですが、昨秋の調査ではその法話を聞かれたご門徒の方の満足度が1%だったということですから、伝道教団としての行く手には暗雲が漂っていると言わざるを得ません。
法話に対する満足度の著しい低評価は、現代の人びとの心に浄土真宗の教えがほとんど響かなくなったということではないかと思われます。
それは、布教使の人たちが説こうとしていることと、それを聞いておられるご門徒の方たちの求めがずれてしまっているということが原因です。
では、どのようにずれているのかというと、それは人びとが宗教に何を期待し、何を求めているかを考えればよいと言えます。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「人間は誰に教えられたわけでもないのに、誰もがみな幸福になりたいと思って生きている」と述べています。
このことからも知られるように、人はみな誰もが「幸福な人生を得たい」と思って生きています。
かつてそれは「宗教に」よって得られることが期待されていましたが、現代の社会においては「科学の力」によって得られると考えられています。
ところが、浄土真宗は人間生活における幸福論、いわゆる現世利益的なことを説かないばかりか、むしろそれを求めることには否定的で、一方法話を聞いている人たちも宗教ではなく科学の力によって幸福を得ようとしています。
そのため、当然のことながら「法話を聞いても面白くない」という結果になるのです。
つまり、聞こうとする心と教えようとする心が全くずれてしまっているのです。
このような現象に至った理由の一つが、現代の人びとは、子どもの頃から科学的な物の見方や考え方をすることを教育によって無意識の内に刷り込まれているということです。
そのため、科学的な思考に反すること、具体的には実証しようのない浄土や阿弥陀仏などについて説かれる教えを容易には受け付けることができなくなってしまっているという訳です。
ところで、科学の正反対に位置するものは何かと言えば、それは「迷信」だと言えます。
現代はまさに「科学の時代」なのですから、当然「私たちの社会から迷信は消え去った」と言えそうなものですが、依然として迷信は消え去っていません。
それはなぜでしょうか。
私たちの人生には多くの不条理な事柄が満ちあふれています。
したがって、どれほど科学が発達しても、明日自分がどうなるか予測することはできませんし、明日どころか「一寸先は闇」と言われるように、一分一秒後も不確かな中にあると言えます。
そのため、科学の力によって得られるはずの幸福が得られず、不幸のどん底に落ちると、人はしばしば迷信に満ちた教えが説き明かす科学を超えた力を求めたりします。
その場合、その求めに応えるような教えが説かれると、人は簡単にその教えにしがみつくことができます。
これが「科学の時代」といわれる現代においても、依然として迷信的な宗教が横行している理由です。
では、浄土真宗ではそれらの人びとに対してどのようなことを説いているかというと、概ねこの世は無常であることを教え、理性的にその道理を語りかけています。
ところが、科学の道理に破れて絶対的な力にすがりつこうとしている人は、理論的に道理を説かれると、ふとまた科学的な物の考え方に引き戻されることになります。
そうすると、また浄土真宗の教えにはついていけなくなってしまうのです。
このように、科学的な物の考え方を無意識に刷り込まれている現代の人びとにとって、浄土真宗の教えは順境にある時は容易には受け入れ難く、また逆境に陥った時も受け入れ難いため、「法話への満足度1%」は、必然の結果ということになるのかもしれません。
さらに、これに拍車をかけているのが、教学の問題です。
今の伝統的な真宗教学は、江戸時代に完成されたものを踏襲しています。
そのため、理論の展開が現代の人びとには理解し難く、言葉(仏教用語)の意味も伝わらなくなっているため、教えそのものが人びとの心に全く響かなくなってしまっているのだと言えます。
本願寺第八世・蓮如上人( 1415-1499)は、中興の祖と讃えられています。
それは、親鸞聖人の説かれた教えを再構築して、その真髄を当時(室町時代)の人びとに分かりやすく説かれ、現在の教団の礎を築かれたからです。
その頃の京都では応仁の乱(1467-1477)などの戦渦もあり、世情は混沌としていました。
そのような中にあって、蓮如上人は親鸞聖人の教えをその当時の人びとに分かる言葉で簡明に説かれることに心を枠だかれ、人びとの心をつよくとらえられたのです。
一方、今私たちの教団は、江戸時代以来の教学をほとんど見直すこともないまま、それが人びとの心に届かないとなると、平和・差別・環境・臓器移植・終末医療など多岐にわたる社会問題を教団の課題として掲げ、それを『実践運動』という名称で取り組むことで、教団の存在意義を示そうとしているかのように感じられます。
けれども、教団が列挙する社会問題は、端的には現代に生きるすべての人びとにとって共通の課題であり、それは念仏者であってもなくても誰もが直視し、それぞれが担うべき事柄だといえます。
一方、教学の問題は伝道教団にとっては喫緊の課題です。
教団の存在理由とも言える「伝道(法話)」への満足度が1%という現実を突きつけられた今、果たしてこのままで良いのか、改めて考える必要があるのではないかと思います。
それは、現実を直視し「現代の人びとの理性・知性に十分に耐え得る教学を再構築しなければならない」ということです。
このことの成否が、後の世代に念仏の教えを残せるかどうかを大きく左右するのではないでしょうか。