「唯除」の誓い

そこで『信巻』の結びが、真の仏弟子になるのです。

そうだとしますと、普通の宗教であれば、今、真の仏弟子を語っているのですから、その真の仏弟子こそ本願の救いを聞いた親鸞聖人その人になると言わねばなりません。

したがって、真の仏弟子の結びは

「慶ばしい哉」

になるはずなのです。

『信巻』は、獲信の構造を説いて、それを明らかにして真の仏弟子とは何かを語っています。

しかも、それを語っているのは親鸞聖人自身なのですから、当然『信巻』の結びは

「慶ばしい哉」、つまり自分はこのように信心をいただいたと、その信を喜ばれるはずです。

ところが、実際は

「慶ばしい哉」

ではなく、

「悲しい哉」

という悲痛な叫びがここに示されるのです。

まことに知んぬ、悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし

という言葉で、真仏弟子釈は結ばれます。

これは、いったい何を意味しているのでしょうか。

ここで、第十八願の救いとは何かが根本的に問い直されることになります。

阿弥陀仏は、いったい誰を救おうとしておられるのでしょうか。

本願に

「十方の衆生」

と誓われていますから、阿弥陀仏は一切の衆生を救われるのです。

この一切の衆生の中には、外道ももちろん含まれています。

当然のことながら聖道の行者、第十九願・第二十願の念仏者、そして第十八願の獲信者、これらすべての人々が救われるのです。

第十八願の念仏者はもちろん、既に正定聚の位に住しているのですから救われます。

外道は、未だ仏法を聞いていない者です。

その外道もやがて必ず仏法を聞くようになるから救われのです。

聖道の行者もいつかは第十九願に転入し、十九願から二十願に転入、そして必ず第十八願に至ることになりますから、いかなるものも全て阿弥陀仏の本願に摂取される。

これが第十八願の内容です。

ただし、ただ一つだけ例外があります。

その例外が

「唯除」

です。

ここで、ただその者だけは除くと本願に誓われているのです。

では、誰が除かれるのかというと

「五逆罪を犯した者と、正法を誹謗した者を除く」

というのです。

結局、唯一除かれるのは、正法を誹謗する者になるのですが、この正法を誹謗するというのは、外道を指しているのではありません。

外道は未だ仏法の真理を知っていないため、訳も分からず罵っているだけですから、これは真の意味で正法を誹謗したことにはなりません。

いつか分かるはずですから。

では、真に正法を誹謗している者は誰かというと、正法の内容が完全に明らかになったにも関わらず、しかもその正法が受け入れられず、その教を拒絶する者こそが、まさに正法を誹謗する者になるのです。

そして、それが今の親鸞聖人の姿に重なるのです。

真の仏弟子の姿を知ることが出来たということは、阿弥陀仏の本願の内実の全てが明らかに分かったということです。

阿弥陀仏の大悲、名号の功徳、人はいかにして救われるか。

このすべてがこの者に明らかになる。

つまり、全部が分かるのです。

そうであれば、当然のこととして、阿弥陀仏の法を喜び、この世の虚仮不実性を厭い捨てなければなりません。

だからこそ、念仏の教えを聞き、喜んで真証の証に近づくのが真の仏弟子です。

ところが、親鸞聖人はそうではなかったのです。