では、仏意釈では何が問題になるのでしょうか。
今度は逆に、それであればなぜ本願に三心が誓われているのかが問題になるのです。
ここで、親鸞聖人は
「仏のお心はよく分からない。
けれども、ひそかに窺ってみると、至心とは真実の心のことである。
私たち衆生には真実の心は何一つ存在していない。
そこで、迷い続けるのみなのであるが、この何一つ真実の心がない衆生をただ一方的に救うために、法蔵菩薩が兆載永劫の修行をなさった時、全くひとかけらの不実も混じらない真実の心を成就された。
不実の衆生を導くためには、無限の真実の心を阿弥陀仏は成就しなければならなかったからである。
信楽とは、阿弥陀仏の覚りのよろこびの心を示すのであるが、そのような覚りの喜びの心など、本来的に衆生にあるはずはない。
そこで阿弥陀仏がその衆生を覚らしめるために、この信楽をも阿弥陀仏の側で成就されたのである。
欲生も同じである。
浄土に生まれるためには、衆生が一心に浄土への往生を願わねばならないのは当然である。
けれども愚かな凡夫には、本当に真実の心で浄土に生まれたいと願う心もありえない。
そこで欲生心もまた、阿弥陀仏の側で成就し、念仏を通して、来たれと呼んで下さっている。
南無阿弥陀仏がそのすがたである。」
と述べておられます。
このように見ますと、至心信楽欲生の三心はすべて、この南無阿弥陀仏に全く重なることになります。
しかし、なぜ念仏の衆生が摂取されるのでしょうか。
それは、阿弥陀仏は名号を通して、衆生を救う心を廻向しておられるからです。
まさしく、弥陀の大悲が名号となって衆生の心に来っているのです。
阿弥陀仏から名号が廻向されるということは、弥陀からの呼び声が届いていることなのですが、単なる声がきているのではなく、ここにまさしく阿弥陀仏の大悲心が来たっているのです。
だからこそ、親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を獲信するその場をおさえて、この行信に帰命せよとおっしゃるのです。
私たちは名号のはたらきを聞き信じるのですが、名号を聞き称えるということは、阿弥陀仏の大悲心が今まさに私の心に満ちていることを信じることになるのです。
さて、ここで私の獲信が問題になります。
親鸞聖人は
「名号と信心」
の関係について
「真実の信心は必ず名号を具す。
名号は必ずしも願力の信心を具せず」
と述べられます。
真実の信心には必ず、すでに名号を具しているとされるのです。
ここは一般的に、信心を得れば必ず名号が称えられると解されているのですが、それは逆であって、信心とは阿弥陀仏の名号が私の心に来っていることを信知することですから、信じるその時には、すでに必ず名号が私の心に入っていなければならないのです。
だからこそ
「真実の信心には必ず名号を具す」
といわれるのです。
ところが、
「名号は必ずしも、願力の信心を具していない」
のです。
なぜかといいますと、獲信していない衆生は、未だ本願の真実に出遇ってはいません。
したがって、その衆生がいかに一生懸命名号を称えたとしても、本当のところ本願の心がわからなければ、その念仏者は未だ本願の心は具していないということになるからです。
獲信の念仏者とは、頂戴した名号を本当に喜ぶことができます。
そこで、この獲信の念仏者を親鸞聖人は、真の仏弟子と呼ばれます。
そして、その真の仏弟子の姿を、親鸞聖人は法然聖人の上に見られたのだと考えられます。
しかも、
「この本当に念仏を喜んでいる、その念仏者は弥勒菩薩と同じだ。
だからこそ、真の仏道を歩むことが出来るのだ」
と、とらえられます。
『信巻』の後半は、流れからすると、三心の真実を聞いて信の一念を得た者は、すでに名号を具している。
名号の真実が明らかになっているから、その名号の真理を真に伝えることができる。
この念仏者こそ、大悲の実践者であり、真の仏弟子である。」
このように真の仏弟子を明らかにしておられるのが『信巻』です。
つまり、『信巻』では獲信の構造が説かれ、真の仏弟子が明らかにされているのです。