「教行信証」の行と信(11月後期)

9.「信巻」の流れ

さて、ここで『教行信証』の

「信巻」

の流れを一瞥してみます。

「信巻」

は、全体を大きく四つに分けてとらえることが出来ます。

第一は

「大信心」

についての親鸞聖人の解釈の部分、第二は

「本願の三心」

を問題にする部分、第三は

「獲信者の心」

を問題にする部分、そして第四が本願に誓われている

「唯除」

を問題にする部分です。

その第一の部分の結びが

「若しは行若しは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふ所にあらざることあることなし」

という言葉になります。

私たちの往生の因の一切は、阿弥陀仏の願心の廻向による。

その本願力を除いては何もありえない。

行も信もすべて、阿弥陀仏の廻向によっていただくだと、

「大信釈」

を結ばれるのです。

そして、その次に本願の三心と『浄土論』の一心についての問答が始まります。

それが第二の部分になるのですが、その問答は二つの部分から成り立っています。

一つは

「字訓釈」、もう一つは

「法義釈」

と呼ばれている部分です。

「法義釈」

というのは、西本願寺における宗学の呼び名です。

前者の

「字訓」

は親鸞聖人が使われている言葉です。

その意味からすれば、後者は

「仏意」

と呼んでおられますので、

「法義釈」

というよりも

「仏意釈」

といった方が親鸞聖人の意に添うかもしれません。

このように、字訓釈と仏意釈あるいは法義釈といわれている二つの部分が、三一問答にはあります。

まず、字訓釈ですが、ここは本願に誓われている

「至心信楽欲生」

の三心の文字の意味、至心とは何か、信楽とは何か、欲生とは何かといったことについて、その言葉の意味が説明されています。

そして最後に、親鸞聖人はその言葉の意味の全体をまとめて、これらの言葉はつまるところすべて清浄真実という一つの心になってしまうと結ばれます。

本願には、

「至心信楽欲生」

という三つの心が誓われているが、その三心はすべて清浄真実の疑蓋無雑の一心である。

至心も疑蓋無雑、信楽も疑蓋無雑、欲生も疑蓋無雑であるから、本願の三心はもともと真実清浄の一心である、ととらえられたのです。

ところで、今日の西本願寺の宗学では、例外なくこの

「疑蓋無雑」

の心を衆生が疑いなく本願を信じる心だと解釈し、この疑蓋無雑は衆生の心だと理解しているのです。

ところが、親鸞聖人はそのようには述べておられません。

本願の至心は疑蓋無雑だ、信楽は疑蓋無雑だ、欲生は疑蓋無雑だと表現しておられるからです。

つまり、阿弥陀仏が本願に誓われた如来の心としておられるのです。

この

「疑蓋無雑」の

「疑蓋」

とは、人間の煩悩心のことです。

したがって

「無雑」

とは、どのような疑蓋だらけの人間の心が阿弥陀仏の心に入ったとしても、弥陀の心はどこまでも清浄真実であって、その不実性は何一つ混じらないという意味になります。

阿弥陀仏の心は、私たち人間の心の影響を全く受けないのです。

どのような穢悪汚染・虚仮不実の心が入っても、阿弥陀仏の心はびくともせず、常に真実清浄な一心だといわれるのです。

ところで、三心はすべて清浄な一心なのですが、その語意をうかがいますと、至心と欲生の意味が信楽という言葉に含まれていることが知られます。

そこでもしこれらの三心を重ねますと、信楽という言葉に重なってしまいます。

字訓釈は、その点を証明するのです。

このように見ますと、三心とは、もともと真実清浄の信楽という一つの心だということが知られます。

そこで天親菩薩は、菩薩の目でもってその本願の真意を見抜かれ、私たち愚かな衆生のために、浄土への往生はただ阿弥陀仏を信じ、一心に願生すればよいのだと教えられたのです。

なぜなら、私たち愚鈍なる者が本願をうかがいますと、どうしても三心が誓われているとしか見えないからです。

そのため、そしてその三心について自らはからいを加え、かえって迷ってしまうことになります。

そこで、天親菩薩が私たちのために

「この三心はつまるところ清浄なる一心である。

だからこそ、衆生はただひたすら一心に願生すればよい」

と、教えておられる。

天親菩薩の

「一心」

とは、本願の

「三心」

はもともと一つの心であることを、天親菩薩が証明されたのだと、親鸞聖人はとらえられたのです。