三十二回
真宗禁制と本願寺(その一)
本願寺は真宗禁制下の薩摩門徒に対してもさまざまな手段をこうじて布教と募在にあたりました。
その主要な事柄として消息の下付、免物の下付、使憎の派遣を掲げることができます。
次にこれらの問題を整理して本願寺が真宗禁制下の門徒にいかに対応したか伺かがってみましょう。
①消息の下付
消息とは歴代の本願寺の門主が門末(僧侶・門徒)に下す手紙(法語)で、信仰の基準になるものです。
現在、真宗禁教下の薩摩門徒に下付された消息として、次の二通があります。
一通は本願寺第十九代本如(在職期間1799~1825)が、薩州煙草講と焼香講に下付したものです。
文中に其国は元亀頃よりこのかた、法義相続に難義なる掟にして、末寺もあらねば、使僧もなども指むけがたきに、各後生の一大事に心をかけられ、講を結び、遠境をいとはず
本山参詣せらるゝこと、有難ことこそ候へ云々とあり、当時、本願寺では薩摩の真宗が元亀年間(1570~73)ころより禁止されたという認識があったこと、また、このころまで、薩摩への使僧の派遣はあまりなかったことなどを知ることができます。
もう一通は明治六年十二月一日、本願寺第二十一世明如が南州有志同行中に下付したもので
(前略)其地ハ久ク弘教ノ路ヲ絶チ、聞法ノ門ヲ閉チタレハ、イカヽ、心得居ラレ候ヤト、旦暮心ヲ痛メ候ヒシ二、幸ヒニ天運循環シ、四海一般ノ皇路二属シ候ヘハ、追々公二弘教ノ端モヒラケ、心オキナク聞法ノ良縁モ来ルヘキ事ナレハ云々、
とあり、本願寺ではすでに真宗禁制政策の解除が近いことを察知していたこと、維新政府の宗教政策に期待をかけていたこと、などを伺うことができます。