白骨章には、先立った方が残されたメッセージをしっかりいただいてお念仏者にならせてもらいなさいと示されています。
八代目ご門主の蓮如上人が、当時の話し言葉や書き言葉をもちいて浄土真宗のみ教えをわかりやすくしたためられたお手紙を御文章と言います。
その五帖第十六通に白骨章があります。
お通夜やお葬式など大切な方の死を通して読まれることが多い御文章です。
近年、臓器移植などの問題などが絡み合い、“死”を定義付けすることが大変難しいようです。
よくよく考えてみると私たちは死とは何かわからないのです。
一つ言えるのは、命終わっていかれた方から見せていただいたものが“死”だという事です。
苦しみもがき終わっていかれた死、突然の死、長い間の闘病生活、最後に見た桜、最後の食事、余命を数える日々、身体のかおり、悲しさ、苦しさ、空しさ、喪失感、くやしさ、戸惑い、安堵、穏やかさ、温もり、冷たさ、後悔、ふがいなさ、その時感じ取られたものが死です。
死とは何かわからならい私に、言葉ではなく感覚として、死とはこういうことだと教えてくださったのです。
つまり私たちが生きている世界の現実を教えてくださったのであります。
残された私たちにとって、このメッセージはこの上なく大切なものです。
しかし、私たちこのメッセージをどのように受け止め、どのようにこれからの人生を歩んでいけば良いかなかなかわかりません。
時にはこのメッセージを無駄にしてしまうことだってありかねません。
白骨章は、「それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに」から始まります。
これは先立った方からのメッセージを深く深く頂いてみますという意味です。
そこから残された私たちが先だった方からのメッセージをどのようにいただき、どのように生きてゆくべきかが記されています。
以下に白骨章の意訳を載せさせていただきます。
どうぞお読みください。
(白骨章・大意) 御文章ひらがな版 本願寺出版社参考より
人の世のはかないようすをよくよく考えてみますと、この世はまぼろしのような一生です。
一万年も生きた人がいるなどと聞いたことはありません。
人の一生はすぐに過ぎてしまうのです。
今、いったい誰が百年の命を保つことなどできるでしょうか。
私が先か、人が先か、今日とも知れず、明日とも知れず、人の命の尽きる後先は絶え間のないものです。
朝には元気な顔であっても、夕べには白骨となってしまうような身です。
無常の風に吹かれると、二つの眼はたちまちに閉じ、一つの息はながく絶えて、元気な顔もたちまち美しいすがたを失ってしまいます。
そうなってしまえば、家族が集まって嘆き悲しんでも、どうしようもありません。
そのままにはしておけないので、野辺のおくりをし、荼毘にふして煙となってしまうと、ただ白骨だけが残るのです。
それはもう言葉にもいい尽くせない悲しみです。
人の世のはかないことは、老若にかかわらないことですから、だれもみな後世の浄土往生という最も大事なことを心にかけて、阿弥陀如来を深くたのみたてまつって、念仏しなければなりません。
合掌