平成30年9月法話『老成 年をとることは衰えることではない』(中期)

「老成」とは、「多くの経験を積んでいて物事に長けていること」をいいます。

また「老成円熟」という四字熟語には「経験が豊富で人格や技能が十分に熟練していること」という意味があります。

いずれも「老」という言葉は、否定的な意味でとらえられてはいません。

ところが、一般に「若さ」は好まれていますが、「老い」はあまり好まれてはいません。

なぜなら、年をとってくると、容貌が衰えるだけでなく、それまで特に意識することもなく、当たり前のようにできていたことが、だんだんできなくなったりしてくるからです。

私も若さを謳歌していた頃は「老い」とはずっと先のことで漠然としたイメージしかなく、何となく「年を取る」くらいにしか思っていなかったのですが、それなりに年を重ねてくると、今までできていたことが少しずつできなくなってきました。

例えば、中学時代は野球部だったこともあり、社会人になってからも仲間とチームを作って軟式野球の大会に出場したり、京都で開催される西本願寺の寺族青年野球大会などにも参加したりしていたのですが、老眼が始まるとナイターの試合ではキャッチャーの出すサインが見えにくくなったり、ヒットを打って勇んで2塁に行こうしても、1塁ベースを回ったところで足がもつれて転んだりするなど、それまで気にもとめていなかったことが難しくなったり、あるいはできなくなったりしました。

そして、次第に「衰え」を感じるようになり、ついには後進にポジションを譲ってチームから引退をしました。

日常生活においても、これと同じようなことをだんだん感じるようになり、その度に一つひとつのことを断念させられてきました。

一般に、このような経験をする度に、私たちはそのことを「情けない」と言って嘆いたり、「こんなに衰えてしまったのか」と悲しんだりしています。

それは、私たちが若くて元気で健康であった時の自分をものさしにしているからです。

つまり、それが本来の自分だと思っているので、加齢と共にいろいろなことが当たり前でなくってしまうと、嘆きや愚痴しか出てこなくなるのです。

だから、最後は「こんな自分になってしまって…」という言葉しか、思い浮ばなかったりするのです。

けれども、その一方で、「老いる」ことによって初めて気付くことがあります。

それはどのようなことかというと、私たちは若くて元気で健康な自分というものをいつまでも本来の姿だと錯覚し、それを基準にいろいろな夢を描き、その夢を追いかけながら生きているのですが、老いる中でその夢が次第に薄れ、ついには消え去ってしまうと、そのことを嘆いたり、一つひとつ断念させられたりすることによって、自分がいかに多くの力に支えられて生きてきたかということに気がつくのです。

そして、それまで自分の力だけで生きているつもりでいたのが、だんだんいろいろなことが当たり前でなくなっていく中で、初めて確かなもの、自分を支えてくださっている世界に出会っていくことができるようになるのです。

経典には、私たち凡夫のことが「凡小」という言葉でおさえられています。

「凡小」というのは、その通りちっぽけな存在ということですが、本人の意識から言えば、自分がすべてだと思っているのがその本質です。

それは、自分こそ絶対だと思い、自分があたかもこの世界の中心にいるかのように錯覚しているあり方に終始しているということです。

人を評価する場合、あの人は器が大きいとか小さいとか言うことがありますが、人間の大きさというのは、その人が出会っている世界の大きさに比例します。

その人が出会っている人、出会っている世界の大きさが、またその人の大きさを決めるのです。

したがって、確かな人や確かな世界に出会っている人が、人間として限りなく大きな存在になっていくのです。

凡小というのは、全部自分の力で生きていると思い込み、自分が世界の中心だという自我の上に立って生きている存在です。

そして、自分のことだけしか見ることがなく、すべてを自分中心に判断していく在り方に終始しているため、自分を包み支えてくださっている大いなる世界というものに、全く心が開かれるということがありません。

そのため、いろいろなことが当たり前のようにできている時は、自分中心の見方をなかなか離れることができないので、どうしても自分のことだけしか見ることができないのですが、老いることによっていろいろなことが当たり前ではなくなっていく中で、初めて大切なことに気付き、大いなる世界に心が開かれるようになるのだとすると、年をとることは決して衰えることではなく、多くの経験を積んでいく中で物事の道理を知り深く頷けるようになることに繋がるのであり、まさに「老いることによって、人間として成就していく」のだといえます。

ただし、老いていく中で、あれこれ失われていくことを嘆いたり悲しんだりしているだけでは、やはり衰えていくばかりということになるのかもしれません。

けれども、当たり前であったことが、そうではなくなることを新たな発見と受け止めることができたり、そのことによって周囲の恩恵などに目が開かれたりするという体験を持つことができれば、人間として衰えていくことはないのだと思います。