私たちは何を願って生きているでしょうか。
誰もが「幸せ」になりたいと願っています。
その幸せの感じ方はそれぞれ異なるとは思いますが、多くは自分の願いが満たされた時ではないでしょうか。
しかし、人間の願いにはキリがありません。
ひとつの願いが満たされても、また新しい願いが生まれます。
その願いの中心には、「自分が愛おしい」という「自我」があります。
すると、いつのまにか「損か得か」「役に立つか立たないか」「健康か病気か」というような物差しが中心となってきます。
また、私たちには、「病気は不幸だ」とか、「死は不幸だ」という価値観があります。
具体的な言葉にすれば、「周りに迷惑をかけたくない」「これでは生きている意味がない」「歳をとって何もいいことがない」ということでしょうか。
まさに自分は「廃品」であると表明しているかのようです。
したがって、自然と「健康でありたい」、「元気でいたい」というのが私たちの願いになっていきます。
それは裏をかえせば、「老・病・死は不幸である」という人生観に帰着します。
田畑正久先生(宇佐市 佐藤第二病院院長・龍谷大学教授)は、「老・病・死が不幸というのなら、私たちの人生は、不幸の完成で終わることになる」と言い切られました。
幸せをもとめながら「不幸の完成」で終わっていくのが、私たちです。
これこそ「空過」の人生といえるのではないでしょうか。
このような「いのち」の見方に対し、年をとることを望みはしませんが、年を重ねていくことで「見えてくる世界」があるのですよと仏教では説いています。
私たちは知らず知らずのうちに、人生に二つの坂をつくっています。
上り坂と下り坂と。
若くて元気なときは上り坂で、下り坂には死が待ち受けている。
これでは「不幸の完成」です。
確かに肉体的な衰えからは逃れることはできませんが、如来さまに抱かれた人生は下り坂ではなく、上り坂一筋です。
「別れ」を奈落の底にではなく、坂の上に置き換えることが大切です。
まさしくそれは、「死」(不幸)ではなく、「往生」(往きて生まれる・幸福の完成)するいのちであり、いのちが解放され、輝くいのちに作りかえられていくことなのです。
かつて、ある方の年賀状に、こんな言葉が書き添えられていました。
「すべてのいのち(存在)を<価値の物差し>で計るのではなく、
存在そのものの<意味>に心を傾けていく、
御同朋のあゆみを続けていきたい。
南無阿弥陀仏」
「老成円熟」という四字熟語がありますが、仏教的に味わうとすれば、次の法語がその内容を言い当てているようです。
「仏さまの教えをいただくと 自分の未熟さがよく見えてくる
未熟には熟するという楽しみがある
年の多少にかかわらず 一日一日が熟していく道中である。」
若い頃、ご法話で次のようなお取り次ぎがありました。
昔のお同行さんはお念仏の味わいとして「長生きは法の宝」といって喜ばれました。
不思議なご縁でこうして長生きをさせて頂きましたが、生身の現実を生きるわけですから「老・病・死」から逃れることはできません。
そこで、つい愚痴や不平、不満がでることがあります。
しかし、こうして長くいのちをいただき、人生の艱難辛苦を経験したお陰で、若い時や健康な時に気付けなかったことが、今、わずかながらも如来様のお慈悲の中の出来事でしたと、私にとっては大切なご縁でしたと、いただく身にお育てを頂きました。
「長生きは法の宝」と、お念仏に出会えたことに感謝しています。
また、お同行さんは、その喜び、感謝と同時に「生きて不調法」ということも同時に味わっています。
如来様に抱かれ、生かされていながら、私の日暮らしを振り返れば、なんと煩悩多い、お恥ずかしい毎日でしょうか。
「生きて不調法」とは私の事でした。
それにつけても、このようなお粗末な私を「必ず救う」と立ち上がって下さっている如来様のお慈悲は、かたじけないものです。
有り難いものですと。
「長生きは法の宝」「生きて不調法」
ここに「老成円熟」の尊さ、有り難さを受け止めることができるようです。