平成30年9月法話『老成 年をとることは衰えることではない』(後期)

私たちは何を願って生きているでしょうか。

誰もが「幸せ」になりたいと願っています。

その幸せの感じ方はそれぞれ異なるとは思いますが、多くは自分の願いが満たされた時ではないでしょうか。

しかし、人間の願いにはキリがありません。

ひとつの願いが満たされても、また新しい願いが生まれます。

その願いの中心には、「自分が愛おしい」という「自我」があります。

すると、いつのまにか「損か得か」「役に立つか立たないか」「健康か病気か」というような物差しが中心となってきます。

また、私たちには、「病気は不幸だ」とか、「死は不幸だ」という価値観があります。

具体的な言葉にすれば、「周りに迷惑をかけたくない」「これでは生きている意味がない」「歳をとって何もいいことがない」ということでしょうか。

まさに自分は「廃品」であると表明しているかのようです。

したがって、自然と「健康でありたい」、「元気でいたい」というのが私たちの願いになっていきます。

それは裏をかえせば、「老・病・死は不幸である」という人生観に帰着します。

田畑正久先生(宇佐市 佐藤第二病院院長・龍谷大学教授)は、「老・病・死が不幸というのなら、私たちの人生は、不幸の完成で終わることになる」と言い切られました。

幸せをもとめながら「不幸の完成」で終わっていくのが、私たちです。

これこそ「空過」の人生といえるのではないでしょうか。

このような「いのち」の見方に対し、年をとることを望みはしませんが、年を重ねていくことで「見えてくる世界」があるのですよと仏教では説いています。

私たちは知らず知らずのうちに、人生に二つの坂をつくっています。

上り坂と下り坂と。

若くて元気なときは上り坂で、下り坂には死が待ち受けている。

これでは「不幸の完成」です。

確かに肉体的な衰えからは逃れることはできませんが、如来さまに抱かれた人生は下り坂ではなく、上り坂一筋です。

「別れ」を奈落の底にではなく、坂の上に置き換えることが大切です。

まさしくそれは、「死」(不幸)ではなく、「往生」(往きて生まれる・幸福の完成)するいのちであり、いのちが解放され、輝くいのちに作りかえられていくことなのです。

かつて、ある方の年賀状に、こんな言葉が書き添えられていました。

「すべてのいのち(存在)を<価値の物差し>で計るのではなく、

存在そのものの<意味>に心を傾けていく、

御同朋のあゆみを続けていきたい。

南無阿弥陀仏」

「老成円熟」という四字熟語がありますが、仏教的に味わうとすれば、次の法語がその内容を言い当てているようです。

「仏さまの教えをいただくと 自分の未熟さがよく見えてくる

未熟には熟するという楽しみがある

年の多少にかかわらず 一日一日が熟していく道中である。」

若い頃、ご法話で次のようなお取り次ぎがありました。

昔のお同行さんはお念仏の味わいとして「長生きは法の宝」といって喜ばれました。

不思議なご縁でこうして長生きをさせて頂きましたが、生身の現実を生きるわけですから「老・病・死」から逃れることはできません。

そこで、つい愚痴や不平、不満がでることがあります。

しかし、こうして長くいのちをいただき、人生の艱難辛苦を経験したお陰で、若い時や健康な時に気付けなかったことが、今、わずかながらも如来様のお慈悲の中の出来事でしたと、私にとっては大切なご縁でしたと、いただく身にお育てを頂きました。

「長生きは法の宝」と、お念仏に出会えたことに感謝しています。

また、お同行さんは、その喜び、感謝と同時に「生きて不調法」ということも同時に味わっています。

如来様に抱かれ、生かされていながら、私の日暮らしを振り返れば、なんと煩悩多い、お恥ずかしい毎日でしょうか。

「生きて不調法」とは私の事でした。

それにつけても、このようなお粗末な私を「必ず救う」と立ち上がって下さっている如来様のお慈悲は、かたじけないものです。

有り難いものですと。

「長生きは法の宝」「生きて不調法」

ここに「老成円熟」の尊さ、有り難さを受け止めることができるようです。