平成30年10月法話『本願 老少善悪の人を選ばれず』(前期)

表題の言葉は歎異抄の「弥陀の本願には、老小・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。」の部分ではないかと思います。

老小善悪とは、年を取ったときの私、若いときの私、善い心が起きているときの私、悪い心が起きているときの私のことです。

そして、そのいずれの状態の私であっても必ず救うというのが弥陀の本願でありますよ、とのお示しではないかと思います。

こちらのお言葉をお聞きする時、私はいつも祖母のすがたを思い出します。

私の祖母は往生し、数年経ちますが、今でもよく覚えております。

私が小さい時からたくさんお世話になっておりました。

その時は、とてもしっかりした厳しくもやさしいおばあちゃんでした。

しかし、そんなおばあちゃんも年を取るにつれて、だんだんと認知症を患うようになり、もの忘れが多くなってきました。

おばあちゃんと一緒にいると、たくさん話しかけてくれるのですが、何のことを言っているのか分からず、うまく会話が出来ませんでした。

そんな中で、ある日おばあちゃんは体調を崩し、倒れ、意識不明になりました。

急いで病院に連れていき検査を受け、何とか一命をとりとめましたが、それ以来おばあちゃんはほぼ寝たきりの状態となりました。

そして、それから1年ほどだったと思います、おばあちゃんは、往生しました。

今振り返ると私はおばあちゃんとの生活の中で、とても大事なことを教えてもらっていたように思います。

それは、ある日、私が部屋で作業をしていた時です。

隣の部屋でおばあちゃんは横になっていました。

認知症のおばあちゃんは、周りに人がいなかったので不安になったのかもしれません、「お母さん、お母さん」と声を出すんです。

私はその声が聞こえると、隣の部屋のおばあちゃんのところに行きました。

おばあちゃんは私と顔が合うと、人が来たことに安心するのか、一旦落ち着きました。

そして、いろんなことを話しました。

私はしばらく一緒にいると、作業をする為、また隣の部屋にもどりました。

しばらくして、また「お母さん、お母さん」と隣の部屋からおばあちゃんの声がしました。

今度は母が行きました。

そして、おばあちゃんは母といろんな話をしていました。

これが繰り返される生活でした。

私は、認知症を患ったおばあちゃんの「お母さん」という声から、「老小善悪の人を選ばれず」ということを味わう思いでした。

認知症になったおばあちゃんは色々なことを忘れていきました。

孫の私のことや、娘である母のこと、そして、自分自身のことさえも忘れていたかもしれません。

しかし、そんなおばあちゃんの口から「お母さん」という言葉が出てきました。

私は、おばあちゃんにとってこの言葉は「はたらき」そのものだったのではないかと思います。

沢山のことを忘れてしまったおばあちゃんですが「お母さん」という言葉は有難いことに残っていました。

もっと言えば「お母さん」という「はたらき」が残っていたのではないかと思うんです。

おばあちゃんにとって、不安や孤独を感じだときにそれを取り除いてくれるはたらきとしてのお母さんであり、そのはたらきが認知症のおばあちゃんの口から自然と現れ出てきたのではないかと思う事でした。

私たちはどのような最後を迎えるのでしょうか。

多くのことを忘れてゆくかもしれません。

それは悲しいことなのかもしれません。

しかし、心配する必要はないのだと思います。

すべてを忘れても、阿弥陀仏がご一緒して下さるからです。

遠い昔に阿弥陀仏は全てのものを必ず救うとお誓い下さいました。

そして、その願いが「南無阿弥陀仏」となって今私たちとともにあり続けてくださいます。

「南無阿弥陀仏」は「はたらき」そのものであり、そのことを「本願 老小善悪の人を選ばれず」と味わうごところでございます。