2020年7月法話 『信心 生きる力となる』(後期)

かれこれ、40年も昔になりますが、私が京都の龍谷大学で学生生活を送っていた時、たまたま浄土真宗本願寺派(西本願寺)の本山である本願寺にお参りに行きました。その時、境内の掲示板に書かれていた次の法語に出会いました。

「病気のなおるのがご利益ではない。病気も無駄にしない生活力こそ本当のご利益である」

そうか、病気平癒、祈願成就など、自分勝手なお願いをするような、わがままのゴリ押しをするのが宗教ではないのだなあ。病気や事故、失敗等があっても、そのこと無駄にせず、生かしていく生活力こそが本来の宗教の力であり、「宗教」「信心」のご利益なのだなと、感じることができました。

それでは、そもそも「信心」とは何でしょうか。よく世間では、「信心がたりない」「もっと信心しなさい」と言われるように、<自分が>何がしかを行い、思いや願いをかなえていくことを「信心する」と表現しているようです。そこには、常に<自分が>という意識が中核にあります。そして、その<自己関心>が、拡大して、<自分探し>に繋がってきます。そもそも<自分とは何者か><何かすごいものが自分にはあるはずだ>との自負心が、<自分探し>の旅に向かしめるのかもしれません。

この<自分探し>に対して、みうらじゅんさん(大学在学中に漫画家デビュー後、イラストレーターやエッセイスト、小説家など、ジャンルを超えて活躍中。仏像鑑賞にも造詣が深い。)は、<自分なくし>からはじめようと、提唱しています。その根拠は、仏教の教えにあるそうです。そこで、要点を私なりに整理してみました。

仏教には「無我」「縁起」という教えがあり、すべての存在は縁によって成り立っています。縁とは「分担協調」(助け合い)とも言い換えることができます。全ての存在は、独立して存在しているのではなく(無我)、他者との関係性で相互に影響を及ぼしあって存在している(縁起)のです。独立した自分、なんてそもそもないのです。みんな他者との関わりの中で生きているのです。

そのことを、みうらじゅんさんは、<自分探し>ではなく、<自分なくし>からはじめようと提唱されています。みうらさんは「自分探しという言葉の呪縛からか、みんな、特別な自分を探さなければいけないような気がしているだけです。たいしたことのない自分を認めると、すごく楽になりますよ」と。

確かに親鸞聖人も「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」(歎異抄 第9条)と阿弥陀如来の救いの目当てを明らかにしてくださっています。また、本願寺第八代蓮如上人も、「仏法には無我と仰せられ候ふ。われと思ふことはいささかあるまじきことなり。」と言われました。

「信心」とは、自分から求めるものではなく、如来さまから賜るものでありました。<自分探し>ではなく、<自分なくし>とは、たよりにならない自分を、あてたよりにするのではなく、阿弥陀さまのはたらき(他力)にまかせることで、私の生きる意味と方向性に気づかされることでした。信心とは、阿弥陀さまの教えを拠りどころとして、この世を生きる力(生活力)となってくださいます。そして、そのことこそが、浄土真宗の<ご利益>なにです。

「浄土真宗の生活信条」では、そのことを、お念仏に生きる姿として、わかりやすく、示して下さっています。

<浄土真宗の生活信条>

一、み仏の誓いを信じ 尊いみ名をとなえつつ 強く明るく生き抜きます

一、み仏の光りをあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます

一、み仏の教えにしたがい 正しい道を聞きわけて まことのみのりをひろめます

一、み仏の恵みを喜び 互いにうやまい助けあい 社会のために尽します