2020年7月法話 『信心 生きる力となる』(中期)

浄土真宗では、親鸞聖人が「阿弥陀さまの教えは、もっぱら信心が中心であると理解しなさい」と説いておられることから、「教えの根本は信心にある」と説かれています。そのため、「信心」がとても重視されているのですが、では「その信心とはどのような心なのですか」と尋ねられると、わかりやすく説明するのはなかなか難しいようです。

辞書で「信心」を調べると「神や仏を信じる心。また、神や仏を信じて祈ることをいう」と説明されています。浄土真宗でも、信心とはひとことで言うと「信じる心」のことですから、「仏を信じる心」、あるいは「仏を信じること」だと言えます。では、この場合「信じる」とは、いったい何を信じるのでしょうか。御本尊は阿弥陀仏と教えられていますから、当然その対象は阿弥陀仏ということになります。

そのため、浄土真宗で「信心」について語られるときは、「阿弥陀仏によって救われるのだと信じること」を前提にしているのだと考えられます。また、「信心が大切だ」ということで、日頃浄土真宗の教えを聞くと

  • 「阿弥陀仏を信じなさい」
  • 「弥陀の本願を信じなさい」
  • 「そのまま阿弥陀仏の大悲に救いとられていると信じなさい」
  • 「念仏して浄土に生まれるのだと信じなさい」

などと、教えられることになるのですが、ここで改めて自身に問いかけてみると、はたして「私は、確かに阿弥陀仏を信じている」と言い切ることができるでしょうか。言い換えると「間違いなく信心している」と言えるでしょうか。

そうすると、誰しも不安な心に陥ってしまうのではないかと思われます。なぜなら、直接見たこともない阿弥陀仏という仏を「信じている」ということについての確証は何一つ得られませんし、阿弥陀仏の教えを信じて念仏した結果、必ず浄土に生まれるのだという喜びの心も自身の内には何ら生じていないことに気がつくからです。

このような意味で、浄土真宗の教えに導かれている者にとって、最も避けたり逃れたりしたいことは、

「あなたは本当に信心を得ていますか」

と、徹底的に問い詰められることだと言えるのではないでしょうか。なぜなら、大半の方は自らが信心を得ているという確証を得ていませんし、心は常に煩悩によって覆われているため、そう問われると誰しも不安にならざるを得ないからです。

けれども、これは当然のことであって、阿弥陀仏もその浄土も、私たちは見ることもふれることも出来ないのですから、自らの力でその真実の姿を目の当たりにしようとしたり、迷いに満ちた心のままで確かな信を得ようとしたりしても、それは本来無理なことなのです。

では、私たちにとって本当に疑いなく信じることのできものとはいったい何でしょうか。それは、「病気になると死んでしまうのではないか」と心配したり、思い通りにならないことに直面すると「先祖が迷っているのではないか」とか、「何かの霊に憑りつかれているのではないか」と空間への畏れに苛まれたりするなど、臨終の瞬間まで、ただ不安におののき続ける自身の姿だといえるのではないでしょうか。

「人間の眼は光そのものを見ることはできないが、光に照らされてわが身を見ることはできる」といわれます。仏教では、私たちの迷いの心を闇であらわし、仏さまのはたらきを光であらわします。それは、闇を破るものがまさに光だからです。

このようなことから、仏さまの教えを聞くということは、どこかの誰かについて聞き知ることでなく、教えに照らされて、どこまでも私自身について聞き知っていくということになります。そうすると、教えを聞くことを通して、私たちは目を背けることなく、このどうしようもない愚悪なる自分の姿を限りなく見つめることが極めて重要になります。

なぜ、私たちは愚かな自分の姿を知ることが大切なのでしょうか。人は自分の愚かさを知ることによって、絶望したりすることはないのでしょうか。

『歎異抄』には、「阿弥陀仏の本願力は、その愚悪なる凡夫をこそ救う」と説かれています。つまり、教えを聞くことによって明らかになるのは、阿弥陀仏は「立派で賢いものを救う」ということではなく、「愚かな凡夫を救う」と誓われているということです。つまり、阿弥陀仏の教えとは、この私を救うと誓われた教えだということなのです。

そうすると、浄土真宗の「信心」とは、「自分には揺るぎない、仏に救われた喜びに満ちた真実の心がある」と、声高らかにまくしたてることではないということが明らかになります。

教えを聞くことによって明らかになるのは、私はどこまでも自己中心的で、不安を抱えた愚かなままで生きることしかできない…、ということであり、だからこそ救われる道は「わが名(南無阿弥陀仏)を称えよ、あなたを救う」という阿弥陀仏の本願の教えをただ信じることになるのです。このように、本願の真理が明らかになり、その真理に疑いの余地のなくなった心を親鸞聖人は「信心」といわれているのです。

では、その「信心」が「生きる力となる」とは、いったいどのようなことなのでしょうか。仏教では、人間を「機」という言葉で呼び、その機を「微・宜・関」の三つの言葉で教えています。

「機微」とは、かすかなものを持っているもの、意識よりももっと深いところにいのちそのものの願いをもっているものという意味です。そのかすかなものが、一番具体的なかたちで現れたものが「不安」です。私の意識にものぼらないくらいにかすかなものが、「今の在り方は確かか」と私の在り方を問いかけてくる、それが「不安」です。そのかすかなものはまた、「いのちの叫び」とも言い表すことができるのですが、そのいのちの叫びを自覚させてくださるのが、仏さまの教えです。

「機宜」とは、私に先立って同じ道を歩んでくださった方の言葉に頷いたり、感動したりすることです。私たちは、本当の意味で言葉を聞き取れた時は、感動している自分に出遇うことができます。いわば、感動してふと気づいたら、「そうだったんだ」と頷いている自身に気がつくのです。例えば、映画やTVドラマを見て感動して涙するということがあったりしますが、気がつけば感動して涙している自分に気がついたり、スポーツ観戦でサッカーのゴールシーンや野球のサヨナラホムーランが出た時など、その光景を目にした瞬間「ヤッター」と言って立ち上がっている自分に気がつくといったことと似ています。頭で頷いて感動するのではなく、感動している自分に気がつく、これが「宜」です。

そして、気づいた時にはそれは必ず歩みになります。これが「機関」、いわゆるエネルギーです。歩もうと思わなくても歩まされている。頷いた事実につき動かされる、そういう存在としての私たちを仏教では「機」と呼ぶのです。まさに「信心」によって呼びさまされるこの歩みこそが、私の人生における「生きる力」になるのだと言えます。