2020年7月法話 『信心 生きる力となる』(前期)

お寺にお参りして、信心を得たら、腹をたてることもなくなり、欲の心も起こらないようになると思われる方がおられますが、そうではありません。

私自身、常日頃、できるだけ腹を立てないようにしていても、縁がととのえばついつい腹をたててしまいます。また例えば自分の持っているスマートフォンが古くなってくると、もっと機能の優れた新しいものを欲しいという気持ちが起こってきます。生きていく中で大小の差はあれども、けっして欲がなくなることはありません。お釈迦様は「ヒマラヤ山脈を全部金に変えたとしても一人の欲望すら満たすことはできない」と言われるがごとくであります。

親鸞聖人は、

「真実信心うるひとは すなわち定聚(じょうじゅ)のかずにいる 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度(めつど)にいたらしむ」

と、ご和讃でよまれています。

これは、「如来の真実心が至り届いて他力信心を得た人は、ただちに浄土往生することが定まった人々の仲間入りをします。往生が定まるということは、再び迷いの世界に退くことのない位に入るということであり、その位に入れば命終わると同時に必ずさとりを開いて成仏することが出来るのです」ということです。

よく旅行から家に帰ってくると、「やっぱり、家が一番いいなあ」という言葉を聞きます。帰る家がない旅行というのは、不安でなかなか楽しむことができないと思うのです。旅行を楽しめるというのは、必ず帰っていくことのできる家があるからなのです。

翻って、私たちが、こうして生活している今、いのち終わったら自分はどうなってしまうのだろうと考えていくと不安で仕方がないと思います。いのち終えて最後に帰り着くところが約束されていないと不安の中で人生の旅を終えることになることでしょう。

阿弥陀如来さまの真実にであい、自分のこのいのちが尽きたならば必ず浄土へ生まれ往き、仏とならせて頂くことが約束される正定聚の身とならせていただくことにより、今、この瞬間を一歩一歩力強く歩んで生きる力となるのです。