2021年3月法話 『聞思 ありのままの自分と向き合う』(中期)

親鸞聖人の主著『教行信証』「総序」の中に「聞思して遅慮することなかれ」という言葉があります。これは「(人生のよりどころを明らかにする確かな言葉を)よく聞き考えてためらってはならない」という意味で、「聞思」とは「よく聞いて考える」ということだと言えます。

また、親鸞聖人は『教行信証』の「信巻」の中で、私たちの心にどのようにして信心が生じるのかということについて述べられる中で、「信心の有無は二つの見方によって確かめることができる」として『涅槃経』を引用し、「信には二種あり、一つは聞より生じ、二つは思より生じる」と説いておられます。私たちに信じる心が生じるのは、聞くという場合と、聞いてさらにそのことについて深く考え信じる心になるという二種があるといわれるのです。

この場合、「ただ聞くということだけで終わってしまう信」と、「聞いたことに対しその内容に深く思いをいたし、よく確かめた上で信じる」というのでは、その信に大きな違いが生じます。確かに、ただ教えを聞いて、単に「なるほど」と思っただけでは、その信はすぐに破れてしまうことになります。それに対して、教えを聞いて、それはどういうことなのかと自ら疑問を出し、その教えの真実性を自らの全人格を通して信じることができた場合は、なかなか破れるということはありません。そのため、聞いてすぐに「なるほど」と終わってしまうような信は、真の意味での信とはいわれなくなります。

ところで、このようなあり方には、実は大きな問題が含まれています。普通この「思」は、私が思うののですから、迷いの原因の行為となってしまいます。なぜなら、煩悩に惑う私たちの愚かな判断が関わると、それは疑問ではなく疑惑になってしまうからです。素直に教えを信じれば良いのに、いろいろな疑問を抱いてあれこれと考えるのは、学問のあり方としては正しくても、仏道の学び方としては、そこに自分の思惑が加わり自力のはからいがなされるため、かえって深い迷いに陥ってしまう危険性があるのです。

そのため、浄土真宗でははからうことを厳しく否定し、「ただ聞く」ことが強調されます。確かに、仏法は究極的には「聞くのみ」ということになるのですが、そこにたどり着くまでの知的段階においては、聞と思という二つの聞き方が大切になるのです。

親鸞聖人の書かれたものを読むと、信に至る最初の段階では、聞より思を重視されます。まず信じるためには、真実の教えに対して、自らの全体で関われといわれます。それは、真実の仏法に対しては、常識的な考え方では、疑問が続出します。それは、聞いていることに対して、「ここが分からない」とか「それはどういうことなのか」と、次々と疑問がわいてくるということです。けれども、真剣に求めようとすれば、疑問がわいてくるのはむしろ当然のことです。したがって、疑問をもつことこそが、自分の主体をかけた問い方であり、真の意味での宗教との関わり方だということができます。

聞く側に問いがあり、その問いに答えが与えられ、さらにそこから新たな問いが生じる。そのような聞思によって、初めて教えとの関わりがだんだんと深まっていくのです。そのため、親鸞聖人は信に至る最初の段階では、聞より思を重視しておられるのだと考えられます。

また、聞ということについては、『涅槃経』の中から「聞不具足」という言葉を引いて、聞いていない状態を明らかにすることによって、逆に「聞」ということを明らかにしておられます。では、『涅槃経』では、どのような状態を「聞不具足」、聞いていない状態だと説いているのでしょうか。

「如来は十二部の経典を説かれたとされています。この場合、その中の六部だけを信じて、いまだ他の六部を信じていない場合、このような聞き方を聞不具足とします。

また、他の六部の経も信じることができて、十二部経全部を信じることができたとします。ただし、その内容を完全に理解するには至らないまま、他の人のためにその教義を解説しようとすると、間違ったことを教えることになります。このような聞き方もまた聞不具足とします。

では、この経典のすべてを完全に理解することができたとします。ところが、この教えを単に他と議論して勝つために利用したり、自分の名誉とか自己満足を得るためであったり、日常生活を営む上での利益を得るために教えを説くのであれば、それもまた聞不具足と名づけます」

このことから、「聞」とは非常に難しいことが知られます。そして、聞いても聞いても、いまだ真実を聞き得ていないばかりか、人間としての愚かさが痛感されるばかりということになります。したがって、自分は本当の意味で教えを信じているか、本当の意味で聞いたことを喜んでいるかということを確かめたいときは、この『涅槃経』の教えを物差しにして、自分の心にあててみればよいのだと言えます。このような意味で、「聞思=よく聞いて考えること」が、「ありのままの自分と向き合うこと」になるのです。