「ありのままの…」。この一節を聞くと、ディズニー映画で大ヒットした「アナと雪の女王」を思いだす方も多いのではないでしょうか。そのテーマ曲として日本語に翻訳された曲の歌詞にも、サビの一番印象的なところでこの言葉が出てきますので、ついメロディーに乗せて読んだ方も少なくないと思います。
私の娘たちも、最もプリンセスに憧れる年齢の時期にこの映画が流行ったこともあり、購入したDVDを何度も何度も繰り返し見ていましたので、そのたびに私も子どもたちの横に座らされ、「なんでお父さんも一緒に見なくてはいけないのか」と、内心は同じものを何度も見続けなければならない苦痛を感じながら、何十回と画面を眺め続けてきました。
しかし不思議なもので、何十回と見続けてくる間にこの映画の持つ魅力に引き込まれ、そのメッセージ性にようやく気づいた時には、とても心に残る大好きな映画に変わっていました。
映画のあらすじとしても、私自身の勝手な解釈で恐縮ですが、自分の持つ不思議な魔法の力を隠し、誰にも会わず心をずっと閉ざし続けていた女王のエルサ(姉)が、長い間ずぅーっと姉のことを案じていた妹のアナとようやく心を通わせたとき、それまで国中を覆っていた氷が溶け、温かな光に包まれていきます。エルサは魔法の力を持つ自分、まさにありのままの自分自身と向き合い、その魔法を「魅力」に変え、晴れ晴れとした気持ちで新たな自分へと変わっていく物語と、私は受け止めています。
今振り返ってみれば、子どもたちの映画にしぶしぶ付き合わされていた感覚であったものが、「お父さんもここに座って、この映画を見なさい、1回で終わるのではなく、続けて見なさい」と、1回見ただけではでは理解できない私のことを見越し、子どもたちは何度も何度も私を呼び、ここに座りなさいと私を導き、この映画に込められたその本質を伺いなさいと私に催促し、ようやくこの映画に込められたメッセージに気づかせてもらいました。
当然子どもたちがそのような気持ちで言っているのではないのは十分承知ですが、そう思わせてくれるほど私に大きな心の変化をもたらしてくれたことは、有難いことでありました。
さて、話を今月の言葉に戻しますが、「聞思(もんし)」とは、絶えず聞き続けること、自らを問い続けることと私は受け止めています。ただ自分本位に自らを問うのではなく、仏法を鏡として、私の有り様が明らかになる仏さまの教えをお手本としながら、心を整えていく歩みが仏道であると聞かせていただいています。
私たちには「心」があります。様々な状況や場面、出来事により心はその都度感情を変えていきます。喜怒哀楽がまさにそれでありましょう。この感受性が豊かであることも、生きる魅力の一つではないかと私は感じています。
怒りに触れて我が心の大なり小なりを知り、悲しみを通す中に心の安らぎを感じたり、その時その瞬間のありのままの自分と向き合ったりする中に、自分の姿や心が知られてきます。
仏教は誰に語られているか、それはどこまでいっても「私」が教えの目当てであり、他の誰でもありません。怒りを怒りと気づき、悲しみを悲しみと知り、喜びを知る。生きるうえで様々な喜怒哀楽はあって当然ですが、その都度、絶えず聞き、絶えず自らを問う生き方の中で、心が開かれてくるのではないでしょうか。