私達の人生は、あえて言えば「選択」の連続であるともいえます。ある研修会で、こんなご法話を聞いたことを忘れることができません。それは、こんな内容でした。
どの学校に進むべきか、どの仕事に就くべきか・・・まさしく人生の岐路に立っての「選択」に迫られることが誰でも、一度や二度はあるものです。しかし、例えば、AにするかBにするか悩みに悩んで苦渋の「選択」。しかし、どちらの路を選んでも、後から振り返れば、結果はあまり変わらない。そこには「悩み苦しむ」世界しか存在しないというのです。逆説的にいえば、もしAを選べば思うままの理想の世界が得られ、Bを選べば地獄のような修羅(しゅら)の世界に堕ちていくというのであれば、「選択」の在り様が運命の分水嶺となるのですが、悲しきかな、この現実世界は、どの路を「選択」してもそんなに変わらないというのです。
私はたどたどしいながらも人生を歩む中に、このご法話を時々、思い返すことがあります。そして、お釈迦さまが説かれた「人生は苦なり」「五濁(ごじょく)悪(あく)世(せ)」の仏語が身に迫ってきます。それは、別の路を選択していればもっと素晴らしい、バラ色の世界が訪れていたのではという、淡い幻想を打ち破るものでした。所詮、娑婆世界における人間の「選択」や「決断」では、決して迷いや苦しみの領域から、一歩も抜け出ることができないという、厳粛なメッセージでもありました。一体、何がそうさせるのでしょうか。
『仏説無量寿経』(下巻)には「・・田(た)あれば田に憂(うれ)へ、宅(いえ)あれば宅に憂ふ。・・田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。・・」と人間の苦悩の姿が説かれています。熊本市良覚寺住職の吉村隆真氏は、このところを分かり易く意訳をされています。「人間は耕作地を所有していれば、田畑のことで悩み、土地建物を所有していれば、家屋のことについて悩むものです。・・田畑を所有していなければ、せめて家庭菜園でも欲しいと思い、家屋を所有していなければ、借家でも居を構えたいと悩みます。」
平成23年、東京都法善寺住職の山崎龍明氏が、ラジオ放送「西本願寺の時間」でご法話をされました。よく、「人間は昔の方は愚かであったが、今の人間は賢い」ということを言われますが、私はそのことに疑問をもちます。そういうくくり方で人間を見ることが正しいかどうか。
たとえば私たちが学んでいるお釈迦様のみ教えは、約2500年前の教えであります。私はお経を読むたびに感銘をうけます。2500年前の人間もやはりこういうことで悩んでおられたのかと。たとえば、家がない人は、ひたすら家が欲しいと思う。子どもがない方は、ひたすら子どもが欲しいと思う。それでは家に恵まれ、子どもに恵まれたら、それだけで私たちは幸せに生きることができるか。私は必ずしもそうではないと思うのです。あるご門徒さんとの会話です。
「私たち夫婦に、1人子どもがいたらもっと家庭も明るく、人生も違っていたのだと思います。」と言われました。また子どもさんに恵まれた方とお話をしていた時に、「住職さん、子どもなんか持たない方がいいですね。子どもが5人いたら5つの苦しみと、昔の人はおっしゃったけれど、本当に苦しみはつきません」ということを言われました。私はそれをお聞きして、両方とも本当ではないかという気がしました。そこで、それをお釈迦さまの言葉で申しますと、「人間は物があればあったで、それが苦しみのもとになる。なければなんとか欲しいと思って、それが苦しみのもとになる。」そして、「有無(うむ)同然(どうねん)にして、憂思(うし)まさに等し」と。
つまり、与えられた物によって人間は幸せが決まるのではなくて、与えられた物をどう受け止めていくか。もっと言ったら、それをどう生かしきっていくかということに、人間の幸せがあるのではないでしょうか。ここにお釈迦さまの「有無同然」の言葉の真意があるのではないでしょうか。