「親鸞聖人における信の構造」 1月(前期)

はじめに

 親鸞聖人は「さとりに至る真実の因はただ信心のみである」と述べられます。

それは、私たちが仏になれるのは、真実の信心を頂くことによってのみであると言われるのです。

そこで、親鸞聖人の「信心の構造」ということについて尋ねていきたいのですが、それに際してこのことを

(1)「獲信の過程」

(2)「念仏と信心」

(3)「親鸞聖人の獲信」

という三つの問題に分けて考えてみたいと思います。

まず(1)「獲信の過程」では、一般に親鸞聖人が明らかにされた浄土真宗の教えは、実は特殊な仏教思想だとみなされていますが、ではその特殊性とはどのような点にあるのかということを示し、併せてなぜそのような思想が親鸞聖人に生まれたのか、その原因とそれを生むに至る過程を問題にしていきます

次に(2)「念仏と信心」では、親鸞聖人の信心は阿弥陀仏の本願との関係の中で生まれています。

この場合、阿弥陀仏は本願に衆生を摂取するための「心」と「行為」を既に成就しています。

親鸞聖人は前者を「大信心」、後者を「大行」と名付けられますが、この両者の姿が「南無阿弥陀仏」だと説かれます。

そこで、南無阿弥陀仏とはいったい何であり、この阿弥陀仏の法はいかにして親鸞聖人の心に来たり、さらに私たちの心に届くのかということについて考えます。

最後に(3)「親鸞聖人の獲信」では、親鸞聖人の獲信の構造を明かにします。

親鸞聖人は「信心」を「獲得する」と表現されます。

自分の信心をこのような表現で語られるのは、おそらく親鸞聖人のみだと考えられます。

「獲得」とは、自分が獲物を得ることで、もともと自分にないものを他から取ってくることを意味しています。

一般的に、信心とは本来自分の心ですから、信じる心になるのであって、「獲得」という言葉は使いません。

これより見て、親鸞聖人が「因」としている信心は、自分の信心ではなくて、その根源にある「如来の信心」を指していることが分かります。

その「信」を親鸞聖人はいかにして得られたかがここでの中心問題となります。