さて、親鸞聖人の信心には、なぜ迷信的要素が全くないのでしょうか。
それは、親鸞聖人はこのような法に自身が包まれている以上、どのようなご利益も全く必要でなくなったからです。
過去・現在・未来、どのような時、どのような場においても、何一つご利益を求める必要がない、だから一切のご利益信仰を全く問題にされなかったのです。
このような意味から、親鸞聖人は、迷信・俗信的な宗教は根本的に否定されるのですが、それに加えて求道的宗教も、祈願的宗教も、方便としては認めながらも、本来的には否定されます。
いまこの場における「如実の信」があれば、そのような宗教もまた不必要になるからです。
なぜいま念仏か。
この世が無常であるかぎり、私たちの人生の一切は不条理であり、不確かだといわなくてはなりません。
その世の中で人々は、確かで幸福な人生を得ようと一心に努力しています。
そこで多くの人々は、科学の力によってその幸福の実現を期待しているのですが、そこには限度があらわれます。
そこでそれに加えて、人々は宗教の力によって幸福になろうと願います。
けれども、いずれにしても最終的にはそれらの幸福の求めは、無惨にも破れてしまいます。
ここに現代人の悲劇が見られます。
破れる幸福の求めではなく、心そのものが無限に輝く法に生かされる。
その法に生かされているもののみが、やはりこの現実を一歩一歩、確かに歩むことができるのではないでしょうか。