「痴呆になったお婆さんが、オムツに漏らした自分のウンコを取り出し、お仏壇に供えて

「痴呆になったお婆さんが、オムツに漏らした自分のウンコを取り出し、お仏壇に供えてたんだって…。」

 いつ聞いた話だったでしょうか…。

その頃、苦笑いしながら

「あぁ、自分はそうはなりたくないな」

と思いながら、聞いていたことがありました。

 しばらく経って、その話を思い出す機会があり、その時は

「人間は、常ではないんだなぁ。

どんな人もいつかは壊れてしまうんだなぁ…。

よく人は地位や名誉といったものに裏切られていくというけれども、実は“老・病・死”と、コントロール出来ない自分自身に裏切られていくんじゃないか。」

そう味わいました。

 そして、最近思うんです。

オムツのウンコを供えた行為は、一見眉をひそめてしまうような行為ではありますが、よくよく味わってみますと…、毎日欠かさなかったであろう、お仏壇のお給仕の習慣が、無意識にそうさせたのではなかったのでしょうか。

 言い方は辛辣かもしれませんが、私たちはお婆さんのいろんな機能は壊れてしまったとみなします。

しかし、何も分からなくなったお婆さんの心の奥底には“ただ、ただ、お仏壇に・仏さまに、お給仕…”これだけは、確かに刻まれていたのではないでしょうか。

 これって凄くないですか? 何も分からなくなってしまっても、お婆さんには“壊れることのない世界”があるんです。

 

 こお婆さんの姿から思うのですが、人はただ壊れて亡くなるだけではないようです。

もし、お婆さんの全ての機能が働かなくなり、いのち尽きたとしても、きっとお婆さんは、壊れることのなかった世界に帰って往かれることでしょう。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。