カンボジアのシアヌーク前国王が逝去されたとの報道がありました。
フランスからの独立、ポルポト時代の終結など、激動と暗黒の時代からカンボジア国民の安定と平和を築き、多くの国民から敬愛され
「カンボジア国民の父」
と称されるほどその存在は偉大なものでありました。
現在のカンボジア仏教界を代表するボンキリ僧王は、かつてシアヌーク国王がフランスに亡命中に国王の家庭教師を努められ、国王自らもまた篤く仏教を敬い、仏教を国教とするほど、仏陀、お釈迦さまを大切になさいました。
どのカンボジア人に会っても、
「ブッダンサラナンガチャーミ」
と、仏教に帰依する言葉一つで誰とでも仲良くなれるぐらい、大人から子どもまで今でもカンボジア人の心には仏教の精神が深く根付いています。
驚いたことは、フェイスブックで繋がっているカンボジアの友人の多くが、シアヌーク前国王の逝去後より、それまでのプロフィール写真ではなく、皆一斉に喪に服す意味でのブラックリボンに写真が変わり、
「I’mSad」
「Icriedalot」
といった、
多くの人が悲しみに涙しているなどの書き込みが多々見られました。
それほど多くの国民から愛され、わが父と慕うほどのシアヌーク前国王のお人柄が偲ばれます。
私が最初にカンボジアを訪れたとき、カンボジアのお坊さんに言われた言葉を今でも鮮明に思いだします。
「仏教は、親しくなることが目的です」
この短い言葉の中には、これまでのカンボジアの歩んできた凄惨な過去の歴史を二度と繰り返さない、そのような思いもきっと含まれてのことでしょう。
宗教や宗派といった違いを超え、仏教の目指す自利利他の実践そのもののような気もします。
学問や知識として仏教の理解を深めることももちろん大切ですが、仏法を、仏さまの教えを何よりも体感するものは、相手がいて、人を通してこそ、法は受け伝えられていくものでありましょう。
風の姿は見えないけれど、草木の揺れ動く姿に風を見るように、その人の生き方や姿勢、言葉の響きのうえに仏を見る。
そう思うのであります。
カンボジアの人を見ていますと、本当にお互いが仲良しなのを感じます。
そしてお互いに合掌し合う光景は、いつ見ても心の平穏を感じずにはおれません。
知らない私たちであっても、必ずといっていいほど合掌して微笑みを返してくれます。
合掌が、また合掌を呼ぶ、まさに仏教先進国、カンボジア人の国民性に仏教の実践を見るような思いがします。
ついつい自分が、自分がと、自己中心の我を通すことに陥りやすい私。
その小さな我が大きくなり、その最たるものがいじめ、差別や紛争へと繋がるのでしょう。
声を掛けること、手を繋ぐこと、微笑みかけること、どんなに小さくても私にしかできない何か。
そのこともまた、
「親しくなること」
へ繋がる仏道の大きな歩みとなるはずです。