私が、小学校1年生の時の国語の教科書に、非常に印象深いお話がありました。とはいっても、実は長い間この話を特に思い出すということはなかったのですが、大人になってから自分がしていることを振り返った時、突然少年の日の記憶が鮮やかによみがえってきたのです。おそらく、心の奥深くに刻み込まれて、眠っていたのだと思われます。
このお話の記憶がよみがえった時、私は「もしかすると、このお話が自分でも意識しないところで、自分の生き方に影響を与えたのかもしれない」と思いました。
そこで、ふと気になって、最近インターネットで検索したところ、私と同じようにこのお話を記憶に留めている人が多かったようで、すぐに見つけることが出来ました。そして、それが『小さい白いにわとり』という題で、ウクライナ民謡であったことを初めて知りました。
お話の概要は、小さい白いにわとりが、豚と猫と犬に向かって、誰が麦をまくかを問いかけるところから始まります。にわとりの問いかけに対して、いずれも「いやだ」と答えるので、にわとりは独りで麦をまきます。
次に、にわとりが、誰が麦を刈るかを問うと、いずれも「いやだ」と答えるので、にわとりは独りで麦を刈ります。それ以降も、誰が粉にひくか、誰がひいた粉をパンに焼くかを問うのですが、豚と猫と犬の答えはいつも「いやだ」です。
ところが、いよいよパンが焼きあがり、小さい白いにわとりがみんなに向かって誰がパンを食べるかを問うと、今度は豚も、猫も、犬も「食べる」と答えるというものです。
そして、このお話はそこで終わり、それから後のことについては何も書かれてはいません。まるで「あなたが小さいしろいにわとりなら、どうしますか」と問いかけているかのようです。
インターネット上では、このお話の内容に対して、いろいろな見方から様々な所感が述べられています。けれども、その大半は「大人の視点」からのものです。「なるほど、そういった受け止め方もあるのか」と感心するものもありますが、私が子ども心に思ったのは「何かを成し遂げるためには、小さい白いにわとりの役目を果たす存在が必要だ!」ということだったようです。もちろん、子どもですから、明確にそのようなことを自覚した訳ではありません。けれども、強く心に残ったことだけは確かだと思います。
大人になってから、例えば宴会でいうと幹事、行事でいうと企画・進行係。苦労は多いものの殆ど脚光を浴びることのない、いわゆる「裏方」の役割になるのですが、なぜかそれらを進んで担うことがよくありました。そして、法要・研修・集いなどの催しが終わり見送りをする際、ねぎらいの言葉とかもらわなくても、来れられた方々がそれぞれに満足そうな笑顔で帰途につかれる様子を見ていると、それだけで苦労が報われる思いがしてきました。
催しは規模が大きくなればなるほど「全員一致協力」ということが理想的な在り方なのですが、中には非協力的な人、あるいは協力しないばかりか進め方の批判をしたりする人もいたりします。しかも、そういう人に限って、目立つ場所に立ちたがったり、自分勝手な行動を取ったりすることが少なからずあります。
凡人ですから、そういう人達の心ない言動に対して腹を立てたり、文句の一つも言いたくなってしまうこともあったりするのですが、ある時ふと「あっ!自分は小学校1年生の時の教科書に載っていた、あの白い小さいにわとりと一緒の役回りをしているな…」と、突然このお話を思い出したのです。そして、自分が何らかの役割を果たすことで、誰かの役に立ったり、それを喜んでくれる人がいたりするし、何よりもそれが同時に自分の喜びにもなっているような気がしました。
仏教では、菩薩が人々を救うはたらきを「利他」という言葉で言い表しています。私は、自分のしていることが、菩薩の利他行には決して遠く及ばないことを十分すぎるくらいに承知していますが、もしかするとその方向性だけは相似しているかもしれないと思ったりもしています。
「少年の日に出会ったお話が、無意識の内に心の奥に刻まれ、自分の生き方を決定付けた」そう思うと、もしかすると「大切なことは、物語を通して伝わるのではないか」というような気がしています。そして、物語に出会った時には特に意識するということがなかったとしても、その物語に託された願いのようなものが物語の記憶と共に心の奥深くに刻まれるということがあるならば、その願いはやがて人生のどこかで華開くのではないかと思ったりしています。
そうすると、いま社会問題化している「いじめ」と、なかなか消えることのない「差別」の問題も、幼少期からそれがいかに愚かで人間として恥じるべきことかということを、物語を通して心に刻み込む営みが大切なのではないか。そのためには、今自分に何かできることはないか…、そんなことを秋の夜長に考えていることです。