「あの人はどんな人ですか?」
と尋ねられとき、私たちはその人のことについて客観的な評価をくだしているつもりなのですが、けれどもそこには無意識にその人に対する好悪の見方が表れてくるものです。
たとえば、
「酒は飲むけど、仕事はよく出来る人ですよ」
と聞くと、お酒のお付き合いも上手に出来て、しかも仕事がよく出来る人だという好印象を持たれることと思います。
その一方、
「仕事は出来るけど、酒飲みだ」
と聞くといかがでしょうか。
何となく、お酒ばかり飲んでいて、仕事は出来るかもしれないけれど…、でもそれも疑わしいといった、あまりよくない印象を持たれることと思われます。
いずれも、述べている事実は同じことなのですが、その人に抱いている感情で言い表した方も変わってくるものです。
つまり、いい人、悪い人といっても、必ずその前には
「私にとって」
という言葉を省略しながら語っている訳で、本当にその人のことを正しく語っているとはいい得ません。
「一国の英雄は、別の国にとっては極悪人」
ということもあります。
例えば、日本の歴史において、豊臣秀吉という人は、立身出世を遂げたいわゆるスーパーヒーローといった存在です。
織田信長の家来として仕え、やがて全国を統一して関白にまで登りつめたということで、歴史小説、テレビドラマ、映画、歴史ゲ-ムなど多くの分野で取り上げられ、
「太閤さん」
という言葉でも親しまれています。
ところが、隣の韓国では二回にわたって侵略して来た極悪人という評価を下されています。
確かに、朝鮮半島での行為を客観的にみると、それを発令した秀吉は侵略者で悪魔といわれても仕方がありません。
もちろんこれは、豊臣秀吉だけではなく、世界の歴史をひもとけば、
「英雄=征服者」
といった図式が成り立ちますから、歴史上のヒーロ−も国によって相反する評価を下されていることと思われます。
このように、私たちは周囲の人々をいつも自分の都合だけで評価してしまいます。
また、
「好きなものをくれた人は、しばらくは好きです」
という言葉もありますが、その人が自分に何らかの利益をもたらしてくれると好意を持ったり、その反対に自分の意のままにならないと憎んだりしてしまいがちな私たちです。
そして、そのような態度が、そのまま宗教との関わり方においても、自分にとって都合の良いことをかなえてくれる神仏を求める…、といった在り方に陥ってはいないか、考えていただきたいものです。