『周りの人に 許されて生きる私』

保釈された酒井法子さんが、テレビの前で涙を流しながら罪の反省をしていました。

 わずか5、6分の記者会見だったのに、何度もその場面が放映されると、繰り返し反省しているように見えてきて、

「これだけ反省しているのなら、もう許してもいいんじゃないか」

と思ってしまいました。

多分、錯覚なんでしょうけど…。

 彼女は、犯した罪があるのですから、それ相応の反省が求められ、処罰を受けるのは仕方がないことでしょうが、私たちの社会は、どこかで許される線引きがなくては生きていけません。

おそらく

「一度罪を犯したら一生許されない」

というような、息苦しい余裕のない社会を求めている人などいないでしょう。

 話は変わりますが、では

「法律で許されれば、他に罪を負うことはない」

といえるのでしょうか。

阿弥陀さまは

「どんなに大きな罪を犯した悪人であっても本願(仏さまの智慧と慈悲)によって救済する」

と、誓っておられます。

 ところが、親鸞聖人の時代にそれを逆手にとって

「悪を犯しても、仏さまはどのような悪人をも救って下さるのだから、悪事を恐れる心配はない」

と、悪を勧める者がいたそうです。

まさか、殺人や盗みまでをも正当化しようとしていたのではないでしょうが、自分の心のままに好きなことを行い、口にして何を思ってもいい、という人々がいたのです。

私たちの常識では、そのような自己中心的なものの見方を認める人はいません。

たとえば、よその国で餓えて死んでいく子どもたちの姿をテレビで見て、

「あぁ、自分は日本人でよかった」

と安心するようなことだからです。

人の不幸を

「さも当然」

と、自分のみが高みに登っているような高慢な心を持つことは、仏教では特にかたく戒められています。

そうした自己中心的な、いわゆる常識という物差しで他を非難し、責めて裁いてきた自分が、独善的で欲望に振り回された恥ずかしい身であったと深く反省するこころに転換させられていくことによって頷かれるのが、

「悪人を救う」

という教えの具体的中身なのではないでしょうか。

 このような意味で、常識という物差しを捨てて仏さまの物差しの中に生まれていくことが、仏さまの救いに目覚めることだといえます。

「自分は少しも悪くない」

と開き直る悪人は、真の意味で救いの喜びを味わうことなど、とうてい出来ません。

 仏さまの物差しで計れば、私の生きる道は決して許されないことばかりでしょう。

それでも、いつでもどこでも、仏さまがついていて下さると思うと、ほのかですが温かいものを感じます。

日々の自らの有り様を振り返ると

「周りの人に許されて生きる私」

という言葉は、その内実において

「周りの人に許されるような私ではないけれど、仏さまのはたらきによって生かされている私」

と読み替えたい気持ちになることです。