親鸞聖人は、念仏者として生きていることのしるしというものを
「ねんごろのこころ」
を持つということの上にご覧になっておられます。
「ねんごろ」
というのは、
「あの人はねんごろな人だ」
という言い方をしたりしますし、身近なところでは
「懇親会」
の
「懇」
という言葉だと言えば、お分かり頂けることかと思います。
辞書で調べてみますと、
「根も絡みつくほどに」
ということから、相手の人と根を一つにするという心を表しているのではないかと説明してあります。
また、
「心づかいのこまやかなさま」
「まごころでするさま」
「互いに親しみ合うさま」
というようなことが述べられています。
これらのことから、
「ねんごろ」
という言葉は、相手の気持ち、さらに言えば相手の存在を思いやる心だということが窺い知られます。
そうしますと、親鸞聖人が言われる念仏者とは、相手の存在そのものを常に心にかけ、思いやる人のことだと言うことができるようです。
このことを理解して行く上で、ひとつ注意しておかなくてはならないことがあります。
それは、
「相手を思いやる」
というのは、自分の思いで相手を思いやるのではないということです。
どれほど自分では
「ねんごろ」
なつもりであっても、自分の思いで相手を思いやると、時として相手の人にとっては煩わしいだけということが少ながらずあるからです。
このことから
「ねんごろ」
ということには、ただ単に相手を思いやるということではなくて、そこに相手を思いやる心を持って、相手に聞くということ。
そして、相手の心に尋ねるということがその根底にはあるように思われます。
日頃、私たちは自分なりに何か相手のことを考えて、
「こうすると、とても喜んでもらえるだろう」
と、何かそういう形で自らの善意を押しつけてしまうことがあります。
けれども、
「ねんごろ」
という時には、精一杯のことをしながら、しかもなおそこに相手の気持ちを思い計るということが大切になってくるのではないでしょうか。
ところで、親鸞聖人はなぜ念仏者として生きていくことのしるしを、この
「ねんごろ」
ということ以て示されたのでしょうか。
それは、おそらく私たちがねんごろな心を失い、
「悪(あ)しかりし心」
をもって
「ひとえにわがおもうさま」
なことばかり言い合って生きているからだと思われます。
「悪しかりし心」
というのは、ただいけないという事柄ではなく、人間としてのあるべき心を失っているということです。
仏教における
「悪」
とは
「嫌悪」
というときの
「悪」
という意味で使われます。
したがって、仏教でいう場有為の
「悪」
とは、人間として
「嫌悪」
すべきあり方に陥っているということで、法律的に罰せられるとかいうことではないものの、人間としてのあり方を失い、損ないながら生きているということを意味しています。
そして、そういう
「あしかりしこころ」
を持つ人は、自分の思いのままにものを言い、自分の思いのままに行動し、しかも自らを正当化しながら生きています。
それは、どこまでも自己に固執する生き方であり、他に対していつも自分を閉ざした心にほかなりません。
したがって、そのような生き方においては、人間としての出会いというものが開かれてくるということは決してありません。
今出会っているその人を、固定観念や先入観で決めつけることなく、一人ひとり真向かいになり、その一人ひとりを深く見つめ、一人ひとりの心に静かに耳を傾けていく。
そこに、今出会っている人と敬い合い、支え合いながら生きる、まさに根が絡み合うほどに共に生きて行くような関わり方が生まれて行くのだと言えます。
私たちの人生は、なかなか自分の都合のいいように展開することもなければ、我が身のことさえも思い通りにはならないものです。
だからこそ、お念仏のみ教えを聞くことを通して、ねんごろの心を持つとき、そこに
「あなたがいてくれたから、がんばれたよ」
とお互いに語り合えるような、あたたかな人間関係が生まれてくるのではないかと思われます。