年度末の3月、何かと慌ただしいこの時期ですが、この3月という月は私にとって忘れられない月です。
私は3月7日が誕生日です。
誕生日だからと言うのではないのですが、中学2年の時の誕生日と祖父との思い出は、今でも忘れることが出来ません。
祖父は、祖母が67歳で亡くなり、それからは一人で暮らしていました。
私たちと住居は別々でしたが、いつでもすぐ行ける距離に住んでおり、行き来するのが楽しみでもありました。
中学2年の時の私の誕生日。
家族と祖父とで誕生日のお祝いに一緒に食事に行くことになり、祖父宅に私が電話を入れ
「じいちゃんこれから迎えに行くからね」
と言葉を交わし、父と二人祖父宅へ車で向かいました。
玄関を開け、
「じいちゃん行くよぉ」
と元気よく呼ぶものの、何の返事もありません。
「おかしいな」
と思いリビングに上がると、ついさっきまで会話していた祖父が、受話器を握ったまま倒れているのが目に飛び込んできました。
すぐに父を呼び、意識のないまま祖父は救急車で搬送されていきました。
その日は、驚きと悲しさで、その後どのように過ごしたか覚えておりませんが、脳梗塞で祖父はそのまま入院となり、楽しみにしていた誕生日は一瞬にして不安な気持ちに変わりました。
それからは心の安まるときがなく、意識の戻らない祖父のことが気がかりで、何をするにも心ここにあらずの日々が続きました。
お見舞いに行きますと、穏やかにただすやすや眠っているようにしか見えない祖父に
「じいちゃん」
と何度も声を掛けますが、意識の戻らない祖父の姿に私は悔しささえ覚えました。
何で起きないんだろう、何で目が開かないんだろう。
当時の私にはそれを受け止めることは容易ではなかったようです。
そして祖父はそのまま一度も意識が戻ることなく、春のお彼岸のお中日の日に80歳で亡くなっていきました。
ちょうどお寺ではお彼岸の法要の最中でもありましたので、お説教のご講師さんやお同行のみなさんも祖父の遺体が帰ってくるのを待っていてくださり、先代住職の大きさを感じました。
思い返してみますと、私のいのちが誕生した日に祖父は倒れ、人間の老いの姿、病の姿をまざまざと見せつけ、そして彼岸の中日に亡くなりました。
仏教の根本にある
「生老病死」
の仏道を、祖父は我が生き様として私に示してくれたように思います。
『なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときこそ、かの土へはまいるべきなり』
祖父だって、もっと生きたかったことでしょう。
身支度を調え、孫の誕生日のお祝いにいつでも出発できる格好で倒れていた姿からは、
「僕のために準備してくれていたんだなぁ」
と思うと、胸がいっぱいになります。
いよいよ最後力尽き、御仏に抱かれていのちを終わっていきました。
私にとって、まさに浄土への道しるべの人でありました。
ある方が
「がんばる」
という言葉を
「願いに生きる」
と書いて
「願生る(がんばる)」
と表現されていました。
とても心に残っています。
祖父は自分の最期を通して、いのちの喜びも生きる厳しさも、そこにその全てを身をもって伝えようとしてくれたのかもしれません。
あなたによって願いを知り、あなたがいてくれたから、願いに生きることを
「がんばる」
と味わうことのできる自分にお育てをいただいたこと、今はただ
「南無帰依仏」
と、仏の願いを聞かせていただく身の仕合わせを有難く思うばかりです。