ある日の夕方、三歳児クラスの男の子が、手にイチゴを二つ持って職員室に入ってきました。
聞けば給食室の裏で栽培しているイチゴを給食の先生から内緒でもらったということでした。
そのイチゴについてしばらくやりとりをした後、二人で食べようということになりましたが、彼が水道で洗った後
「はい」
と渡してくれたのは小さな方のイチゴでした。
「園長先生は、○○君より大きいんだから、大きい方がいいな」
と何度も交渉しましたが、頑として聞き入れてはくれません。
「二つあったら、大きい方を自分で取りなさい」
と面と向って子どもに教える親は、そうはいないでしょう。
誰に教えられなくても、人は子どもの時から自分にとって何が得なのか(損なのか)を瞬時に察知するように出来ているのです。
「煩悩」
とはまさに、この自己中心の心が根源になって現れる様々な心のはたらきです。
音楽の才能やスポーツの才能などは、すべての人に備わっている訳ではありませんが、この
「煩悩」
だけはすべての人間に具わっています。
一般に煩悩の数は百八あると言われますが、その煩悩の代表選手が
「三毒の煩悩」
といわれる
「貪欲(とんよく)=貪りの心」
「瞋恚(しんに)=怒りの心」
「愚痴(ぐち)=愚かな心」
ですが、これら煩悩の根源にあるのが、
「自己中心の心」
です。
「貪欲」
は貪りの心といっても、何でも欲しいという訳ではありません。
お金は欲しくても、まさかゴミが欲しいという人はいないでしょう。
つまり
「貪欲」
とは、自分にとって都合の良いものを貪り求める心のことなのです。
「瞋恚」
とは、自分にとって都合の悪いものに対する怒りの心です、
「いい人・悪い人、みな自分の都合」
という言葉がありますが、自分にとって都合の良いものを貪り求め、都合の悪いものに腹を立てる、このように自己中心の見方しか出来ず、真実の見えていない愚かさのことを
「愚痴」
といいます。
親鸞聖人は、
「煩悩は私の心身に満ち満ちていて、怒り、ねたみ、そねみなどの心は臨終のその時まで決して消えることはありません」
と自らを省みておられます。
よく年を取ると丸くなるといいますが、それは体力と気力が衰えただけのことであって、煩悩は決してなくなったりはしないのです。
この世の中の争いごとは、お互いの煩悩と煩悩のぶつかりあいから起こるといっても過言ではありません。
六月は、梅雨の季節。
今月の言葉は、降り続きやむことのない梅雨の音に、尽きることない私たちの煩悩をたとえているのでしょう。
そして、そんな私たちの本質をお見通しくださっているのが、阿弥陀如来さまなのです。
見えているから救わずにはおられない、と言ってくださるのです。
み教えを聞く中で、煩悩具足の身であることに気付かされ、そのことを傷み悲しみと共に受け止めたとき、そうではない方向に生きて行きたいという願いが私たちの中に生まれてくるのではないでしょうか。
「回心(えしん)」(浅田正作)
自分がかわいい
ただそれだけのことで
生きてきた
それが
深い悲しみになったとき
ちがった世界が
ひらけて来た
「ちがった世界がひらけて来た」
というのは、煩悩がなくなったということではありません。
煩悩があるまま、煩悩を超える生き方が恵まれてきたということです。