「法によるべし」(下旬) 絵に描いたもち

中央仏教学院講師 清岡隆文さん

年賀状を書こうとした頃に、十一月から十二月にかけて次々とポスト入ってくる、いわゆる喪中欠礼の「年末年始のごあいさつを欠礼いたします」というハガキに気がつきます。

私は職業上やり取りする人が多いので、そういうハガキが五十枚くらい届きます。

 「この一年間に家族・身内の誰かが死んだので、素直に明けましておめでとうと言える心境じゃないから、年末年始のごあいさつを失礼させていただきます」という内容です。

あの文面をもう一度読み直してみると「父が○歳で亡くなりましたので」とか、「母が○つきに○歳で亡くなりましたから」と具体的に書いてあるのもありますが、漠然と「身内に不幸がありましたので、年末年始のごあいさつは失礼いたします」とあるわけです。

 「身内に不幸」という言葉だけで、誰かが死んだということに気づかないといけません。

となると、不幸というのは死んだということと一つになって考えられることになります。

そうすると、不幸のない人生って、絵に描いたもちですよ。

誰とも別れない人生ってありますか。

みんな不幸はいやです。

幸福ばかりでありたい。

だけど家族が死ぬということを不幸ととらえる上は、不幸を経験しないで一生を終える人は誰一人いないはずです。

 ですから、それを単に不幸というおさえ方だけにしてしまっていいものかどうか。

逆に、幸福というもののとらえ方をどのようにするのか。

そういうところを仏教はまた私たちに問いかけてくださるのです。

だから先ほども言いましたように、幸福とか不幸とかいう言葉はお経さまの中にはほとんど出てきません。

 私たちにとって「この世がすばらしい」「私の人生、良かった」と言えるのは、喜びそして安らぎ、そういう人生が送れたという時点に立って考えないといけないのではないでしょうか。

目先のことだけで一喜一憂するのではなく、全体として私の人生はどうだったのかといった時に、私の人生良かったと言えるような生き方をさせていただけるところに、仏さまの教えを仰いでいくということが大切なのです。

 ここで、仏教の教えというものは、死んでから先の話ではないということを強調しておきたいと思います。

とかく今までの仏教の説かれ方、聞き方というものが、死んだらお浄土に行ける、このことがもちろん究極の私たちの行き着くところとしては大切なのですが、そのことばかりを強調すればするほど、生きている間はあまり仏教の教えは必要ないというふうにとられかねない誤解が生じてきます。

 ですから親鸞聖人が一番苦労なさったのは、一度しかないこの人生をいかに悔いなく充実して生ききれるか、というところに仏さまのおはたらきを仰いでいかれたのです。

もう生き死には関係なく、仏さまのおはたらきをいただいて行くままが、いのち終われば間違いなく仏さまの世界に迎えられていく、このようにいただいていかれました。

この世におけるところの教えとして受けて行かれたことを、私たちはしっかりと受け止めていかなければならないと思います。