宗教の場合には、やはり死ということをもってきます。
カウンセリングの場合には、死ということではないわけですね。
世の中をどう生きていくか、周りとどう上手に適応し仲良くしていくか、そういうことであって、どう死ぬかということでは決してありません。
ところが、宗教的なことになってくると、人間を超えた智慧に遇うということになります。
それはどういうことかというと、死というものを超えていくということなんです。
難しく言えば、相対界から絶対界と言うんですけども、我々の世界は相対界と言って、常に比較の世界なんです。
いくら賢いといっても、そこにもっと賢いものをもってきたら、それは賢いとはいえなくなります。
また、この水は冷たいとかいっても、本当はわからないんです。
なぜなら、普通の水はこんなもんだという勝手な概念がありますけども、そこに氷の入った水を持ってきたら、元の水は冷たくないというでしょう。
我々が幸福であるかどうかというのも周りと比べてのこと、相対界の中にあるんですね。
絶対界とは、そうではなくて比較するものを超えた智慧の世界なんです。
我々の世界では生と死、生きることと死ぬことは矛盾する全く別のものとしてあります。
しかし宗教では「生死一如(しょうじいちにょ)」と言います。
矛盾しているものが矛盾でなくなるというのが宗教です。
我々の世界では、矛盾しているものは矛盾でしかありません。
好きと嫌いは一緒にはなりません。
ところが、自分はダメな人間だったと思うと同時に、救われていたという喜びがそこにある。
この本来あり得ないことがある世界を宗教というのであって、それは信じること、体験することによって決まる世界なんです。
自分を無神論者だという人が「神も仏も絶対にいない」と言うのは、絶対にいないことを信じているということです。
いるとするにせよ、いないとするにせよ、自分がそう思って信じるかどうかです。
そのときに単に頭の中で思うか、体験するかの違いがあります。
その体験というのが、ここでいう「廻心ということただひとたびあるべし」ということです。
世の中のこと、例えばお金もうけや健康ばかりに執心して、それを増やそう、保とう、残そうとしても、どちらもいずれ必ずなくなります。
もちろんそんなことはみんな頭の中ではわかっているんです。
そうではなく、それが本当に自分のもの、現実のことだと「目覚める」ことを廻心というんです。
その時がきて、死ぬということ、財産はおいていかなければならないということ。
そういうことを頭だけで理解したつもりでいるか、本当に「目覚める」かの違いがあるということです。
その経験をされた人のことを、浄土真宗でいえば阿弥陀さまにお遇いした人、ご安心を得た人、妙好人といいます。