「カウンセリングと仏教」(上旬) 人が超えたもの

======ご講師紹介======

友久久雄さん 龍谷大学文学部教授

☆ 演題 「カウンセリングと仏教」

昭和十七年姫路市生まれ。神戸大学医学部卒業後、同大学院医学研究科を修了。

以後、京都教育大学教授、文部省海外短期研究員、京都大学客員教授を経て、平成十三年に龍谷大学文学部教授に就任。

平成十五年から、龍谷大学院臨床心理相談室(大人と子どものこころのクリニック)室長を務めておられます。また、精神科医、臨床心理士とともに、浄土真宗本願派の僧侶でもあられます。

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龍谷大学文学部教授 友久 久雄 さん

 本当の自分を知っていくという点でカウンセリングと宗教はよく似ていますが、それではどこが違うのかと考えると、「傾聴」と「聴聞」ということなんです。

 カウンセリングでは「傾聴」と言います。

お話をしっかり聞くということで効果が上がってきます。

その聞き方はどうなのかというと、聞かれた質問で、その人が自分の方を向く質問でなければならないわけです。

「こうなの? ああなの?」ということではなしに、「どうしてそうなったのだろうか」ということを、カウンセラー側からいえば聞いていくのです。

 聞かれた側はそれを聞かれることによって、また自分が考えていくことによって、「ああそうだったんだ」と思うわけです。

だから、ある意味の「自分探し」ということですね。

ここでは自分の一生をずっと見直していくことが重要になるわけです。

 それに対して仏教、特に浄土真宗の場合では「聴聞」と言います。

「聴」というのは耳で聴く、理屈で聴く。

自分で一生懸命お話を聞いていくわけですね。

それが「聞」となってくるのはどういうことかというと、「ああそうだったんだ」と心で聞くことなんです。

これを宗教では「目覚め」と言うんです。

 カウンセリングの場合には「気づき」と言います。

これは、人が人によって気付かされるということでね。

宗教的な目覚めというのは、人が人を超えたもの、我々はそれを「阿弥陀さま」と言いますが、そのような人間を超えた智慧によって目覚めさせられる。

こういうことがあるから、我々はお釈迦さまを大切にし、親鸞聖人の体験を大切にして、その同じような体験が出来ていくわけです。

それが人間を超えた智慧に目覚めるという体験なんです。

 カウンセリングでも同じような体験があるんです。

例えば飛行機が落ちて、そのことで身内が亡くなって悲しんでいる人を見たら、かわいそうだなと自分も同じような痛みを感じますよね。

このようなことを追体験と言います。

これで聞いてもらった人は、わかってもらったというふうになるわけです。

 あるいは、自分の子どもが死んで悲しんでいる時に、その話をしたからといって、相手の人が子どもを生き返らせてくれるわけではないんです。

そんなことはわかっているわけです。

しかし、極端な言い方をすれば、同じ苦しみを味わった人に話をするとお互いがわかりあえる。

お互いが追体験しあえるんです。

別にその体験がなくても、そのようなことは出来ますよね。

自分の子どもが先に死んでなかったらわからないかといったら、そんなことはないんです。

 人が人への場合は追体験、人が仏と出遇った体験という場合は「目覚め」と言います。

これを「廻心」とか「悟り」というような表現を仏教はするんです。

だから同じことなんですけども、相手が違うわけです。

人と人とのわかりあいと、人を超えたものとの関係、これが宗教であるか、カウンセリングであるかの違いなんです。