「南無阿弥陀仏」を称える、そこにこの私の一切の救いがあると言われても、現代人一般の目から見れば、そのような
「因果の道理」
を直ちに信じることは極めて難しいといわざるを得ません。
南無阿弥陀仏とは、言うまでもなく、私自らが阿弥陀仏に対して、礼拝し帰依して心から阿弥陀仏を讃嘆し、一心にその浄土に生まれたいと願う心です。
けれども、幸いに言葉として
「南無阿弥陀仏」
が私の口から称えられたとしても、この私に果たして阿弥陀仏という仏を信じることができるのでしょうか。
ましてやその浄土に生まれたいという心が起こるのか、私には大きな疑問になります。
それは当然のことであって、阿弥陀仏や西方の浄土を信じることが難しいのは、何も今に始まったことではないからです。
それは既に、釈尊の時代から、そしてそれ以降の多くの高僧達もこの問題に直面しているのです。
阿弥陀仏の浄土の教えは、まことに易しい教えだといえます。
なぜなら、阿弥陀仏の大悲を信じてその浄土に生まれたいと願えば、ただちに仏に成るという教えだからです言葉を換えれば
「ただ念仏して仏になる」
ということですが、ただし浄土の経典には、この行道は易行であるが、この教えをその通りに信じることは
「難中の難」であって、これ以上の難はないと明確に記されています。
したがって、浄土の法門における最も根本の問題は
「いかにして阿弥陀仏を信じるか」
ということにあると言えます。
まさにこの点こそが、古代から現代に至るまで多くの高僧によって問い続けられてきた問題なのです。
殊に、理性的判断に頼っている現代人には、見ることのできない阿弥陀仏やその西方浄土の存在は、まさしく信じ難い問題だということになります。
にもかかわらず、なぜ私たちにとって
「南無阿弥陀仏」
が全てだと言うことができるのでしょうか。