「親鸞聖人の他力思想」2月(中期)

次は親鸞聖人ですが、『教行信証』の

「行巻」に、

この行信に帰命すれば、摂取して捨てたまわず。

故に阿弥陀仏と名づけたてまつる。

これを他力という。

と述べておられます。

 

 

「この行信に帰命すれば」

「行信」

とは、南無阿弥陀仏のことです。

ここで私たちを救おうとしている阿弥陀仏の心と、阿弥陀仏のはたらきに

「帰命すれば」

という私の心が問題になります。

「すれば」

とは、

「したならば」

という仮定の意味ではなく、

「帰命するそのときに」

という意味です。

阿弥陀仏のはたらきである

「行」

「信」

に帰命するそのときに、阿弥陀仏はその人を摂取して捨てたまわない。

その仏さまを、阿弥陀仏と名づけるといわれるのです。

 したがって、摂取するとは、帰命しているその人を救う力のことで、それが

「他力」

だと説いておられるのです。

もう一度いいますと、一般に私たちは

「他力」

を問題にするとき、自分とは関係なく、向こう側に仏さまの力をおいて眺めていますが、親鸞聖人の他力思想とは決してそのようなものではありません。

常に、私と阿弥陀仏の関係を述べておられます。

阿弥陀仏に帰命するとき、帰命しているその人を救われるのが阿弥陀仏です。

したがって、私が阿弥陀仏を信じるということと、阿弥陀仏が私を摂取するということがそのまま重なる訳で、この道理を離れては、浄土真宗は成り立ちません。

言い換えると、阿弥陀仏に帰命するその人を救われる仏を、阿弥陀仏と呼ぶのであって、その衆生を救う力をまさしく

「他力」

というのです。

 そこで親鸞聖人は、同じく

『教行信証』

「行巻」

 他力というは、如来の本願力なり。

と、説いておられます。

 衆生を救っている力、それが

「他力」

なのですが、その他力こそが如来の本願力であると述べておられるのです。