『おかげさまが 見える眼に』

生きるということは、応用問題を解き続けていくようなものですが、その問題を解く時に使う私のモノサシがあります。

そのモノサシは、私の都合や立場に合わせたものです。

私の使うモノサシと全く同じものは、この世にはありません。

そんな自分中心のモノサシでは、物事をあるがままに正しく計ることができず、ずれて見えたり、時にはまるで反対に見えることにもなりかねません。

判断を誤り、後悔することが多いのも、そのせいなのでしょう。

迷いとは、私たちのこういう姿をいうのです。

仏教は、仏さまの智慧の教えです。

自己中心的なはからいを超えた世界からの、私たちへの呼びかけです。

その智慧のモノサシを頂いて、私のものを見る目や生き方が少しずつでも変わっていき、ついには人生の意味までが変わっていきます。

ガラスのコップを横から見れば長方形、真上から見れば円形に見えます。

視点が変われば、まるで違う世界が開けます。

人生の意味まで変わることになります。

私たちは、日々の暮らしを続けているうちに、毎日の生活を当たり前と思ったり、

「今日も良いことが何もなかった」

と、不足の思いに陥りかねません。

しかし、仏さまの教えを聞きますと、今私がいるこの世界は、何が起るか分からないところ、今日の暮らしが明日も保障されている訳ではない、ということに気付きます。

昔から

「一寸先は闇」

といいます。

そんな世界にいるのだと思えば、昨日と今日とどこが変わったのかわからないような一日も、

「家族揃って、一日が無事に終わります」

と、喜びや感謝の思いがわいてきます。

「見る眼があれば、喜びの種はどこにもある」

と言った人がいますが、そのような眼を持つことができた人は、この厳しい世界を生きながら、喜び多い人生を歩むことができるのでしょう。