私たちが日頃口にしている
「おかげさま」
という言葉は、漢字では
「お蔭(陰)さま」
と書きます。
これは、ある結果を目にしたときに、そのことが成り立っている目には見えない陰の部分のはたらきを意味する言葉です。
これと、同じような意味を表す言葉に
「ご恩」
という言葉もあります。
これは漢字の成り立ちから
「(原)因を知る心」
であるということが窺えます。
つまり、結果を見てその原因に思いを寄せる心のありようを物語る言葉だといえます。
美しく咲いている花を目にした時、私たちはその美しさに心を癒されたり、和まされたりします。
けれども花はあくまでも結果であり、そこには必ず原因である種があったことは言うまでもありません。
そして、忘れてはならないことは、その原因である種から結果としての花にいたるまでは、土とか水、あるいは太陽の光といった諸々の自然の恵み、また何よりも心をこめてお育て下さった方のご苦労があったからこそ、結果として美しい花が咲いたということです。
このように、ある一つの結果にふれたときに、その原因までたどって感謝する心の在り方を
「ご恩」
というのですが、同じように自らが身に受けた事柄を支える、目には見え難い陰の部分のはたらきを
「お蔭さま」
という言葉で味わうことができます。
では、この目には見えない
「お蔭さま」
を私たちはどのようにして見ることができるようになるのでしょうか。
例えば、この地球という星は一日一回転(自転)し、一年かけて太陽の周りを回っている(公転)と聞かされています。
けれどもそのことを自らの力で知り得るかというと、なかなか難しいのではないでしょうか。
長い間その事実が明らかになるまで、そしてなってからも依然として人々は、
「星々の方が回っている」
と信じていました。
もちろん、そのことを教えられなければ、現代の私たちも自らの力でそのことを自覚できる人はあまり多くはないと思われます。
しかしながら、ほとんどの人が地球が自転していることは
「教えられる」
ことによって知っています。
したがって、教えられることなく自覚することは難しいのですが、教えられること、聞かされることによって、目には見えない事実を知ることはできます。
このように、仏さまのみ教えを繰り返し、繰り返し聞くことによって、たとえ肉眼で見ることはできなくても、私たちは確かにあるはたらきを心の眼で味わうことができるようになるのではないでしょうか。
一般に、私たちはお盆の時期には先祖の方々、あるいは先に往かれたご家族・ご親族の方々にことのほか心を寄せることを常としていますが、では残りの日々はいかがでしょうか。
熱心に思えば思うほどに、残りの日々はいろいろなことに追われ、自分のことに精一杯で生きている自分の姿が知らされます。
そんな私のことを、拝まない時にも拝んでいて下さり、いつも案じ、念じていて下さることの有り難さが偲ばれることです。
思うに、
「おかげさまが見える眼」
をいただくところに、生かされ生きていることをよろこぶ心も自然とわいてくるのではないでしょうか。