『愚痴いつも誰かのせいにして』

人の間を生きる私たちにとって、様々な原因から、時には不平不満を言いたくなることもあります。

生きていれば、困難も楽しさも、嬉しいことも泣きたいことも、逃げ出したくなるような場面も巡ってまいります。

厳しいようではあるけれども、そこをいただいた現場として歩んでいかなければならないのも、また私たちの人生でもあります。

「愚痴」

とは、そもそも仏教の言葉であり、物事の本質を見る力のない自分であるとか、自分中心の考え方に陥る私の姿であったり、愚かさ、無知など、私たちの心の有り様を表した言葉です。

今では、都合が悪かったり、物事が自分の思うようにいかなかった時についつい

「愚痴をこぼす」

「グチる」

などと表現されるように、不平不満の意味で用いられる場合がほとんどですが、本来の意味からすると、そのように日頃私たちが使う意味合いからはだいぶかけ離れています。

しかし、その言葉を正しく見ていくところに、愚痴がこぼれる我が身こそ、仏教の救いの目当てとされる大きな理由があるような気がします。

仏教は、

「気付き」

であるとか、

「自己への目覚め」

ということを大切にします。

愚痴の原因も、それを自分以外のところに求めるのではなく、どこまでいっても自分という存在がそこに問われなければなりません。

不平不満や怒りの感情は、誰の心の中にも芽生えてきます。

縁に触れ折に触れ、その度にコロコロとめまぐるしく移り変わる心を持つのが私たちの姿であり、それが自分の中で消化しきれなくなった時、まさに言葉になって溢れ出てくるものが

「愚痴」

と呼ばれるものなのでしょう。

むしろ溢れ出ることで、自分と向き合う大きなきっかけともなるはずです。

私たちは、自分の感情や気持ちを言葉に表現できます。

時としてそれは、相手を傷つけたり、あるいはまた励ましたり、癒されたりと、様々な形で私たちの間を往来しています。

「ひとつの言葉でけんかして、ひとつの言葉で仲なおり」

という詩もありますね。

たとえ愚痴であったとしても、私の気持ちを聞いてくれる相手がおり、一緒にうなずいてくれる相手がいるということは、何よりの安心ではないでしょうか。

愚痴を誰かに相談できることも、それもまたお互いを深める架け橋であり、まさに人との間で生きる私たちです。