『一番怖い鬼さんは 私の中におりました』

性善説と性悪説。

あなたは、どちらを支持されますか。

人間の元々の性質はよいものである、というのが性善説、元々は悪いのだ、というのが性悪説、あなたはどちらだと思われますか。

キリスト教的世界観にしたがえば、神が人間を作ったのなら性善説ではないかとか、いや、神のいうことをきかないでリンゴをかじってしまったから性悪説ではないか、などといった考えが浮かびます。

では、仏様はどのように人間をみられているのでしょうか。

おそらく、そのどちらでもないと思います。

人間は、縁に触れて良くもなり悪くもなるから、手に負えない存在だといえるのではないでしょうか。

例えば、子ども二人を餓死させてしまった育児放棄の女性の事件につい考えみます。

一般には、これはいかに残忍でおかしなことか、という視点で事件を見てしまいがちです。

しかし、夫婦げんかをしたり、仕事がうまくいかない時に、つい子どもにつらく当たることはなかったでしょうか。

もし自分が一人になって仕事もない、夜は子どもが泣いて休む暇もない、頼る人もいない、となればどうでしょうか。

少したとえが極端になったかもしれません。

毒があれば、毒があるようにわかればいいのです。

その点で、鬼はわかりやすい形をしています。

角があって怖い顔をしていますから。

毒に近づいてはだめだ、と注意できます。

問題なのは、毒がなさそうで毒を持つものです。

そのものは、一見やさしそうで、耳に心地欲響く言葉を吐きますが、内に強烈な毒をもっていたらどうでしょうか。

人間の難しさは、やさしそうで毒をもっていたりすることです。

忙しすぎてこころに余裕がなくなった時、さびしくてひとりぼっちに耐えきれなくなった時、欲望に振り回されてしまった時、おかしな方向に進んでしまったとわかればいいのですが、それに自ら気付くのはなかなか難しいことです。

また、人の心は移ろいやすく、変わりやすいものです。

注意深く鏡をのぞいてみなくてはならないと思います。

角が生えていたらあなたはラッキー、毒の怖さがわかります。

もし、優しそうなお顔に見えれば…、少し気をつけた方がいいかもしれません。

一番怖い鬼さんは、鬼の形をしていませんから。

薬にも毒にもなるのが人間であれば、願わくば、好き好んで毒を飲むことなく、他の人の薬となれるようになりたいものです。