親鸞聖人のこの解釈によれば
「南無」
とは、弥陀の願意であって、阿弥陀仏が一切の衆生を救うために、発願廻向されている心を意味し、その阿弥陀仏の、一切の衆生を救い続けている本願力の
「はたらき」が、
「阿弥陀仏」
という
「すがた」
だと捉えられています。
したがって弥陀の名号といえば、一般的には
「阿弥陀仏」
の四字を指し、
「南無」
は衆生の側に属するのですが、親鸞聖人においては
「南無」
も含めて、六字の全体が弥陀の名号だと解釈されるのです。
だからこそ、衆生が
「南無阿弥陀仏」
と一声念仏を称える、そのときすでに、その衆生を攝取するという弥陀の願力に、この念仏者の全体が覆われ、この人の心は光明無量・寿命無量という功徳で満たされていることになります。
念仏者はこのように、どのような時、どのような場においても、このように無限の光明によって輝いているが故に、
「念仏者は無礙の一道なり」
といわれるのです。
ただし、この真理はどこまでも念仏法門の道理であって、自分自身がこの仏道の真実に、自らの全人格的な場で出遇わない限り、称えられている念仏は、自分にとって単なる音声でしかありません。
親鸞聖人が法然聖人に出遇われるまで称えておられた念仏は、まさしくこの単なる音声としての念仏であって、その称名は親鸞聖人に苦悩をもたらすものではあっても、悟りに導かなかったのはそのためだといえます。
けれども、一度阿弥陀仏の本願力廻向の念仏が信知されたとき、親鸞聖人の心には何かが明らかになったのです。
それは、何かというと
「光明無量・寿命無量という最高の仏が、いま南無阿弥陀仏となって自分の心に来たり、自分を攝取している」
という、念仏の真実を獲信されたのです。
そうだとすれば、その獲信の瞬間、親鸞聖人はすでに往生が決定している自身の姿をご覧になられたのだと言えます。
阿弥陀仏がこの世に来たり親鸞聖人を包みこんでいるという、弥陀の大悲心を信知されたからです。
この点を親鸞聖人は『一念多念文意』で本願成就文の
「即得往生」
を解釈され、
「即得往生」
といふは、即はすなわちといふ。
ときをへず日おもへだてぬなり。
また即はつくといふ。
そのくらゐにさだまりつくといふことばなり。
得はうべきことをえたりといふ。
真実信心を得れば、すなわち無礙光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまはざるなり。
摂はおさめたまふ、取はむかへとるとまふすなり。
おさめとりたまふとき、すなわち、とき日おもへだてず、正定聚のくらゐにつきさだまるを、往生をうとはのたまへるなり。
と述べておられます。
真実信心を獲得すれば、念仏者はすでに弥陀の摂取の光明の中に抱かれているのですから、その瞬間、この人は正定聚の位に住しています。
今はその姿を
「往生をう」
というのだとされます。