親鸞聖人の往生浄土思想(4月前期)

 ではなぜ

「即得往生」

を往生を得てしまったと解さないで、やがて必ず往生を得るべき身に定まった

「正定聚の位」

だと見られるのでしょうか。

ここに、親鸞聖人の浄土観があります。

 親鸞聖人は、阿弥陀仏の真の仏身・仏土を

「仏は則ち是れ不可思議光如来なり。

土はまた是れ無量光明土なり」

と捉えられ、『唯信鈔文意』

「極楽無為涅槃界」

の解釈で、

 この報身より応化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無礙の智慧光をはなたしめたまふゆへに尽十方無礙光仏とまうすひかりの御かたちにて、いろもましまさず、かたちもましまさず、すなはち法性法身におなじくして、無明のやみをはらひ、悪業にさへられず、このゆへに無礙光とまうすなり。

無礙は有情の悪業煩悩にさへられずとなり。

しかれば阿弥陀仏は光明なり。

光明は智慧のかたちなりとしるべし。

と説示されます。

この阿弥陀仏とその浄土は、一般的には浄土三部経に説かれているような浄土と信じられてきました。

たとえば『無量寿経』の

「正宗分」

十劫成道の文では、その浄土が

 法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。

ここを去ること十万億刹なり。

その仏の世界をば名づけて安楽という。

(中略)成仏よりこのかた、おおよそ十劫を歴たまえり。

その仏国土は、自然の七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・硨磲・瑪瑙、合成して地とせり。

(中略)清浄に荘厳して十方一切の世界に超踰せり。

と説かれ、その浄土の

「清浄荘厳」

は、後にさらに詳細に描写されます。

『阿弥陀経』や

『観無量寿経』

においても同様で、まことに具体的に浄土の荘厳が描かれているため、その魅力に人々は心をひかれて、浄土への往生を願ったのです。

 ところが、親鸞聖人は阿弥陀仏の浄土を、そのような七宝の樹や池や楼閣による荘厳の場とは見られず、浄土が西方にあり、弥陀は十劫に成仏されたとする、浄土建立の方向性や時間性をも問題にされません。

浄土教の常識からすれば、普通は、阿弥陀仏は西方にましまし、その浄土より無限の光を放たれ、私たち衆生を摂取されると考えます。

にもかかわらず、親鸞聖人はその仏と浄土を、無限の空間と無限の時間の全体を覆って、照らし輝く光そのものと捉えられるのです。

そうしますと、宇宙のどこかに光を放つ根源があって、そこから私たち衆生を摂取する光が来ているのではなく、その光が無限であるかぎり、宇宙の全体がまさしく光り輝く阿弥陀仏そのものであり、浄土だと見なければなりません。

この点を親鸞聖人は、阿弥陀仏は法性法身に同じであって、尽十方無礙光仏と呼ばれる、光の御かたちだと理解されます。

無限の光とは、宇宙の全体に輝くのですから、どのような微塵世界までも照らされないものはありません。

何ものもその智慧の光を障礙することはできず、それゆえにこの光は最低極悪なる有情の悪業煩悩をも問題にせず、その無明の闇を照破されます。

ただし、この智慧の光は、法性法身に同じく、色もなく形もありません。

そこで、その無限の智慧光が

「南無阿弥陀仏」

という音声となって衆生の心に廻向されます。

親鸞聖人は法然聖人の説法を通して、この念仏の真実を信知されたのです。

 そうであれば、獲信し称名している親鸞聖人は、すでに阿弥陀仏の大悲に摂取され、浄土の真っただ中に行かされているといわなくてはなりません。

では、なぜそうであるにもかかわらず、親鸞聖人はこの念仏者の姿を往生している者とは捉えられず、必ず往生することが定まった身という意味で

「正定聚の機」

と呼ばれ、弥勒菩薩と同じ位であるされつつも、大涅槃の証果は

「臨終一念の夕べ」

に超証するといわれたのでしょうか。

それは、念仏者自身、阿弥陀仏の功徳に満たされているとしても、その者は未だ煩悩を具足している愚人であることに変わりがないからです。

また、弥陀の大悲の功徳を聞き信じることは出来ても、大悲そのものを見ることはできません。

ましてや、自分がいま浄土の真っただ中にいると言われても、その実感は何ら湧いてはきません。

肉体的な苦悩は何一つ消えることはありませんし、自分が目にするものの一切、環境の全ては穢土そのものであって、自分には一片の浄土も存在していません。

したがって、念仏者自身自分はすでに往生している、この世は浄土であるとどれほど嘯(うそぶ)いても、それは全く詮なきことであって、虚しい自己満足をつくっているだけに過ぎません。

しかし、自分は未だに穢土に住む凡愚ではあっても、否、臨終の一念まで迷える凡夫であるからこそ、獲信の念仏者は、弥陀の無限の功徳が、この私の心に満ち満ちていることを歓喜するのです。

それは、既に自分の心に弥陀の来っておられることを信知しているからです。

この信心の念仏者が、臨終来迎を待つ必要性のないことはいうまでもありません。

この点を親鸞聖人は『末灯鈔』の第一通に

真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。

このゆへに臨終待つことなし。

来迎たのむことなし。

信心さだまるとき往生またさだまるなり。

来迎の儀則をまたず。

と示されたのです。