親鸞聖人の往生浄土思想(4月中期)

親鸞聖人の浄土観の特徴は、阿弥陀仏の浄土を真実報土と方便化土に分けて、浄土に真実と権化を見られた点にあります。

そして、真実報土に関しては、既に見てきたように、光明無量・寿命無量という意味において捉えておられます。

したがって、凡夫は

「南無阿弥陀仏」

という言葉を除いては、この真の浄土とふれ合うことは出来ません。

親鸞聖人の思想においては、念仏の一点のみが浄土との接点になるのです。

では、方便化身土、仮の浄土とは何でしょうか。

親鸞聖人は

『教行信証』

「化身土巻」

の冒頭で、

謹んで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の如し。

真身観の仏これなり。

土は『観経』の浄土これなり。

また『菩薩処胎経』等の説の如し。

則ちこれ懈慢界これなり。

また『大無量寿経』の説の如し。

則ちこれ疑城胎宮これなり。

と述べておられます。

「懈慢界」や

「疑城胎宮」

が化土であるという思想は、すでに源信僧都の著述に見られるところですが、従来の浄土教は『観無量寿経』に説かれる浄土や真身観の仏こそを、真の浄土であり真の仏であると考えてきました。

その仏身仏土を親鸞聖人はなぜ、方便化身と解されたのでしょうか。

その真と仮との違いを、どこに見られたのでしょうか。

 ここで、大きく二つの理由を見ることが出来ます。

一は相好において、二は往因に関してです。

一の相好では、真においては、浄土が光寿二無量という無限性で捉えられているのに対して、仮の浄土では

「指方立相」

の言葉に見られるように、西方という方角が示され、時間的・量的に有限な表現がとられています。

それは真身観において、まさにそうであって、その仏の相好や浄土の荘厳が人々をして、念仏を称え浄土往生を願わせる教えとなっています。

だからこそ、親鸞聖人はこの点に、方便の義を求められたのだと考えられます。

 では、二の往生の義に関してはどうでしょうか。

この点について親鸞聖人は

『浄土三経往生文類』

において、

『無量寿経経(大経)』

『観無量寿経(観経)』

『阿弥陀経』

に説かれる三つの往生の形態を示され、

「大経往生」

のみを真実、他を方便と見られます。

少し長くなりますが、親鸞聖人の

「大経」

「観経」

「阿弥陀経」

に関する往生理解について、その原文を見ることにします。

 大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力とまふすなり。

これすなわち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。

現生に正定聚のくらゐに住して、かならず真実報土にいたる。

これは阿弥陀如来の往相廻向の真因なるがゆへに無上涅槃のさとりをひらく。

これを『大経』の宗致とす。

このゆへに大経往生とまふす。

また難思議往生とまふすなり。

 観経往生といふは、修諸功徳の願により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を廻向して、浄土を忻慕せしむるなり。

しかれば

『無量寿仏観経』

には、定善・散善・三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏をときて九品往生をすすめたまへり。

これは他力の中に自力を宗致としたまへり。

このゆへに観経往生とまふすは、これみな方便仮土の往生なり。

これを双樹林下往生とまふすなり。

 弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて、不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号をえらびて、万善諸行の少善をさしおく。

しかりといゑども、定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。

如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に廻向して果遂のちかひをたのむ。

不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願をうたがふ。

そのつみふかくしておもくして、七宝の牢獄にいましめられていのち五百歳のあひだ自在なることあたはず。

三宝をみたてまつらず。

つかへたてまつることなしと、如来はときたまへり。

しかれども如来の尊号を称念するゆへに胎宮にとどまる。

徳号によるがゆへに難思議往生とはまふさずとしるべきなり。