親鸞聖人の往生浄土思想(4月後期)

『大経往生』

については、すでに述べました。

では、なぜ

『観経』

の往生思想、第十九願の誓いが方便なのでしょうか。

『観経』

の教えや

『大経』

第十九願の誓いが、最初から方便であるということではありません。

経典にそのように説かれ、本願にこのように誓われている以上、もし衆生が教えの通りに信じ、真実心をもって行道に励めば、当然、真実の報土に往生するといわねばなりません。

仏の教えに偽りはありえないからです。

ただし、教えに引かれながらも、教えの通りに実践することが出来なければ、真実浄土への往生は不可能だというべきです。

それは、教えにしたがっていないからです。

さて、この教えにおいては、菩提心を発して、諸の功徳を修し、真実の心で往生を願います。

それは上品の衆生の行道になりますが、定善や散善、三福を一心に修することによって、臨終に正念に住し、仏の来迎を得ると説かれるところです。

この行道においては、聖道の諸行とほとんど変わりはありません。

たとえこの世で証果を得られなくても、臨終において往生を願えば、仏の来迎を得て、次の世、必ず証果を得ることが出来るからです。

しかし、もしこの教えを凡夫が聞いて、その教えにひかれて形式的にほんの少し仏道を行じただけで、邪な心で仏の来迎を願ったとすればどうでしょうか。

この衆生が仏道を行じたという自覚は、単なる錯覚でしかなく、完成したと嘯くことがまさに

「邪見・憍慢・悪衆生」

となります。

それゆえにこの衆生は

「懈慢界」

に往生するのです。

ただし人は先ず、このような心しか持ち得ないのだとすれば、この教えはまさしく、人をして浄土を忻慕せしめていることになり、ここに親鸞聖人は方便の義を見られたのだと思われます。

では

『阿弥陀経』

の往生思想、第二十願の誓いによる衆生の往因とは何でしょうか。

この衆生は、すでに阿弥陀仏の名号を選び、万善諸行の少善を捨てて、念仏を称え一心に浄土への往生を願っています。

では、この衆生にとって、何が最も重要になるのでしょうか。

まさしく純粋なる心で阿弥陀仏とその浄土を信じること、つまり自分の心から疑念の一切を捨ててただひたすら弥陀の本願力を信じ、一心に名号を称念して浄土往生を願うことだといえます。

ところが親鸞聖人は、この心こそを、阿弥陀仏の不可称不可説不可思議の大悲の願を疑う心だといわれます。

第二十願の機の自覚内容からすれば、自分こそ一心に阿弥陀仏を信じ、浄土往生を願って念仏を称えている者と自負しているはずです。

けれども、自らの力で一生懸命に願えば願うほど、本願に摂取されたいと求めれば求めるほど、本願より廻向されている名号、念仏の真実義をかえって疑っている姿をここに顕すことになってしまうのです。

本願には

「汝を救う」

と誓われているのに、この念仏者はしかもなお、この本願に必死にしがみつこうとしているからです。

そこで、この衆生は

「疑城胎宮」

に往生するとされるのです。

ただし、この本願によって、人はまさしく称名念仏の道に導かれ、果遂の誓いをたのむことになります。

この義のゆえに、第二十願の教えを方便だと見られたのだと言えます。

今日、日本の浄土教に対して

「浄土教には利他行がない」

という、一つの厳しい批判がなされています。

「大乗菩薩道とは、利他行こそが仏道であるのに、浄土教にはその利他行がないので、大乗仏教とはいえない」

というのです。

けれども、はたして浄土教には利他行がないのでしょうか。

それは全くの謬見であって、この点は法然聖人や親鸞聖人の仏道を見れば明らかです。

法然聖人は廻心以後、どのような仏道を歩まれたのでしょうか。

吉水の草庵で、ただひたすら念仏を称えつつ、大衆に

「選択本願念仏」

の道を説いておられます。

具体的には称名念仏を勧めておられるのですが、その称名念仏は法然聖人ご自身が浄土に生まれるための念仏ではありません。

このときの法然聖人は、自分自身の往生はまったく問題にしておられません。

なぜなら、法然聖人の往生はすでに決定しているからで、自分の往生を願うという自利の面は、このときの法然聖人には必要ではなかったのです。

だからこそ、法然聖人の仏道はただ利他行のみなのであって、その利他行によって日本浄土教が生まれ、当時の大衆はこぞって浄土に導かれているのです。

日本仏教において、法然聖人以外、誰がこれだけの利他行を成し得たでしょうか。

ただ浄土教者のみが、よくこのような仏道を成し得ていると言えるのではないでしょうか。

それゆえに、親鸞聖人の仏道も全く同様であって、獲信以後の親鸞聖人は、自利の面である自らの往生は何ら問題にされることはなく、人々に

「ただ念仏して弥陀に救われよ」

と、利他行の一道を歩んでおられます。

お手紙を窺うと、

往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生を思しめして、御念仏さふらふべし。

わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれてまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえさふらふ。

と認めておられます。

これによっても、信を得た念仏者の道は、ただ利他行のみであることが明らかです。

なお、還相廻向の問題については、別の機会に改めて考えたいと思います。