念仏の口が愚痴ゆうていた
合掌するその手が蚊をうつ
これは、俳句特有の季語にも17文字にもとらわれない自由律の俳人、住宅顕信(すみたく けんしん)という方の詩です。
この方は浄土真宗本願寺派の僧侶であり、今から25年前に亨年25歳という若さで白血病にて亡くなられました。
もともとお寺に生まれ育った方ではなく、若いころはやんちゃもしたりでいろいろな経験をされ、22歳の時にお得度をされましたが、翌年には急性骨髄性白血病を発病されたそうです。
発病後に奥さまと離婚され、生まれたばかりの息子さんを住宅家が引き取り、病室にて育児をされたそうです。
入院してから亡くなるまでの約3年の間に、281句もの俳句を残しておられます。
それらの俳句には、お念仏の教えに出遇った中で、息子さんに対する想い、病気の苦しみや本人の淋しさ無念さ、といったものがとても素直に伝わってきます。
その中の2句が先にあげたものです。
私たちは生きている限り最後まで何をするかわからない存在です。
縁にもようされてお念仏称える時もあれば、その同じ口で愚痴をこぼしたり、人の悪口や陰口、言葉で人を傷つけおとしめたりもします。
仏さまのはたらきに出遇い、亡くなられた方々や、生かされて生きているわがいのちをおもい、手を合せることもあれば、その同じ手で平気で他のいのちを奪ったりもします。
そのような自分中心のわたくしの姿を、仏さまは煩悩具足の凡夫と呼び、そのような煩悩具足より生み出された世界を虚構と否定されました。
親鸞聖人の『歎異抄』のお言葉に、
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
とあります。
これは
『あらゆる煩悩が具(そな)わっている私たち、そして、この世はまるで燃えさかる家のようにたちまちに激しく移り変わっていく世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。
その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである』
という意味ですが、この言葉は、この世の中には何の真実などない、すべてはそらごとたわごとである、と言われたのではありません。
わたしたちの煩悩具足から生み出された世界に真実はないと言われたのです。
このわたくしどもを煩悩具足の凡夫と思い知らせ、人の世を煩悩の火の燃えさかる家のようなものだと知らせて、わたくしどもをその迷いの世界からよびさまし、真実の領域へと導こうと願われたのが、阿弥陀仏の本願であります。
その本願は、南無阿弥陀仏の念仏となって火宅のすみずみにまで響きわたり、かたくなな煩悩のこころを開いて、真実の世界へと向かわしめるものです。
口には愚痴も多く、手では罪の意識すらなく蚊を殺したりしているこの自分中心のわたくしに、阿弥陀仏の真実のおこころが、わたくしのお念仏の声や合掌する手とまでなってくださっているのです。