ある立派なキリスト教の司教さんが、
「私がなぜ教会の司教になったかというと、兄弟は立派で、家族も名門だった。
自分だけが何もできなかった。
くじけそうになり暗くなっていく。
ある日飼っていた犬に話しかけた。
黙って聞いてくれた。
何を話しても聞いてくれた。
毎日犬と話しているうちに心が晴れてきた。
ただ黙って聞いてくれるだけ、何の返事もないけれど…。
『そうだ、神さまが私の話を黙って聞いて下さるように、私も人の話を聞く人になりたい』
と思い司教になった」
と書かれていました。
私たちは
「聞法一筋」
と言います。
お聞かせ頂きたい、どんなお話も聞き通していきたい、
「お聴聞」
とも言います。
「きく」
を二つ重ねる。
聞こうとしない私を向こうから聞かせて下さる。
そのうえ
「お」
まで付けるのは、落語じゃないんだよ、漫才じゃないんだよ、仏さまのお話だよとお聞かせ頂けることかと思うのです。
二十一世紀は、みんなで生きる
「共生」
の時代だと思うのです。
核家族が増えてきて
「幼老共生」
という言葉も使います。
幼い人と年を取った人が、一緒に社会の中心で生きましょうということです。
「一人の人はみな図書館を持っている」
というほどの人生経験豊かな年を重ねた人が、幼い人たちを支えて下さる時代。
また、一方でバーソナル・コンタクトの時代とも言います。
心と心が触れ合う時代ということです。
最後に、金子みすゞさんの詩をご紹介して終わろうと思います。
「こだまでしょうか」
という詩です。
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。
私たちはお互いが、心と心を触れ合わすというのは
「こだま」
のようなものかなと思います。
「情動は伝染する」、
私がうれしくニコニコしたらみんなに伝わります。
いやだいやだと怒った顔が家族に一人いるなら、みんなもそうなるでしょう。
家族や社会から、たくさんの方々から情動を伝染する
「こだま」
のように、お互いが私の姿を相手に見る、私の声を相手に聞く、そんな時代をと思っています。