『自分の力で生きているものは一つもない』

子どもたちが本堂にお参りをしてくれた時に、

「本堂の中には、龍も、象も、獅子もいるんだよ、探してごらん。」

と声をかけます。

そうすると

「へえー」

という顔をして結構真剣に探してくれます。

龍はわかりやすいのですが、象や獅子はなかなか見つけられないようです。

あなたも、本堂にお参りした時には、龍や象、獅子を探してみて下さい。

わからないときは、お寺の人に聞いて下さいね。

さて、龍や象、獅子のほかにもたくさんの生き物がいるのですが、その中に頭が二つある鳥(双頭の鳥)がいます。

名前を共命之鳥(ぐみょうのとり)といいます。

『仏説阿弥陀経』

という、阿弥陀様と阿弥陀様のおさとりの世界である浄土のことを教えて下さるお経の中に説かれています。

頭が二つありますので、一見妙な感じがする鳥ですが、この鳥はその名前、その姿が私たちにこんなことを語りかけてくれています。

「いのちはつながっているんだよ。

だれもが決してひとりで生きているのではないんだよ」と。

孤立・孤独・孤独死・孤食等々、

「孤(独)」

という文字(言葉)は、私たちの今生きている社会の厳しさを象徴する言葉のように思います。

もちろん、どの時代も孤独ということは人間にとって苦しみであり、悲しみであることに変わりはありません。

実際に。

先ほど紹介した

『仏説阿弥陀経』

というお経が説かれた場所も

「祇樹給孤独園(精舎)」

という名前です。

最初の文字と最後の文字だけをとったら、よく聞く

「祇園(ぎおん)精舎」

になるのですが、その中に孤独という文字が含まれていることに気付くでしょう。

なんで精舎がこんな名前なのかについて、ここでは詳細には説明できませんが、人はどんな時代でも

「孤独」

を苦悩として生きていく存在であることは間違いないようです。

お参りされている子どもたちや大人の方々に、阿弥陀経の共命之鳥が書かれているところの文章を見ていただきながら、いのちはつながっていること。

つながりがなければいのちは今ここに存在しないということなどを一緒に考えます。

この前、小学校2年生の子どもたちにいのちの授業をさせていただくご縁をもらいました。

その時には子どもたちと一緒に、私のいのちが一体どれほどのいのちとつながっているのかを考えました。

私から出発して、最後は地球のあらゆるいのち、過去のいのちとのつながりがあることを確認して、すごいねという思いを共有できました。

つながりがあるからこそ、私は今ここに生きています。

決して自分だけで生きているのではないのです。

でも、誰も私のことをわかってくれない、私は独りだと思う時もあるでしょう。

親鸞さまはなくなる前にこの様な言葉を残されたそうです。

「ひとりでいてうれしいとき(悲しいとき)は、二人と思って下さい。

二人でいてうれしきいと(悲しいとき)は三人だと思って下さい。」

あなたは決して独りではないんだと言われているのです。

仏となったいのちは、いつでも私に寄り添い私を導き続けていると浄土真宗では教えます。

生きている人だけでない、亡きいのちともつながりながら、私は今ここに生きている。

双頭の鳥は、そんなことも語ってくれているようです。

今度お寺に行くことがあったら、この鳥を探してみてくださいね。