小説 親鸞・乱国篇 第一の声 11月(1)

「これを、鞍馬の遮那王様へ、さし上げてくれいと、おん奥の方のお伝えでござる」

小筥を前に、侍従介がいう。

平たい塗筥(ぬりばこ)である。

ゆるしをうけて、吉次は、そっと、蓋をとって見た。

伽羅(きゃら)の香が、煙かのように、身をくるむ。

白絹でつつんで、さらに、帙(ちつ)で抱いた愛らしい一帖の経本が入っていた。

紺紙に金泥(こんでい)の細かい文字が、一字一字、精緻な仏身のように、端厳な気と、精進の念をこめて、書かれてあった。

「どなたの、ご写経でございまするかな」吉次がいうと、

「されば」侍従介は、改まった。

「お従弟にあたる遮那王様の孤独を、人知れず、おいとしがられて、吉光御前様が、日頃から、心にかけて遊ばされたもの。

……その由、鞍馬へ、おつたえして賜れ」

吉次は、ちょっと、不満な顔色を見せたが、押しいただいて、ふところに納めながら、

「そのほかには?」

「おことばでもよいが――くれぐれも、亡き義朝公、源家ご一門のため、回向をおこたらずご自身も、朝(あけ)暮(くれ)に仏道をお励みあって、あっぱれ碩学とおなりあるようにと……。

おん奥の方、また、お館様からも、ご伝言にござりまする」

「承知つかまつりました。

では、これで……」吉次は、元の裏門から外に出た。

宵よりも、星明りが冴えていた。

夜は通る人もない日野の里だった。

「なんのこった……」苦労して、訪ねてきただけに、期待が外れて、彼は、がっかりした。

吉光御前の思いやりと、自分や自分の主人秀衡が考えている思いやりとは、同じ遮那王にもつ好意にしても、まるで、性質がちがっていたことを、はっきり、今、知った。

自分の主人、秀衡は、遮那王を、仏界から下ろして、源氏再興の旗挙げをもくろんでいるのであるし、吉光御前や、有範朝臣は、あべこべに、遮那王が身の終わるまで、鞍馬寺に、抹香いじりをしていることを、祈っているのだ。

なるほど、それは、遮那王の身にも、彼の従姉にも、無事な世渡りにちがいない。

だが、そうして、源家のわずかな血脈が、一身の安立ばかり願っていたら、源氏はどうなる。

平家をいつまでも、ああさせておくのか。

また、路傍の飢民をどうするかである。

彼はもちまえの東北武士らしい血をあらだたせて、さりげなく、預かって出た写経の塗筥を、手につかんで、唾をした。

「こんなもの!遮那王様に渡しては、ご立志のさまたげだ」

築地の下の溝へ向かって、砕けろとばかり、たたきつけた。

汚水にそれを叩きつけたが、とたんに彼はふと、吉光御前のやさしい姿を瞼に見た。

光ある人間のあたたかな魂へ、土足をかけたような、惧(おそ)れに襲われた。

椋の葉のしずくが、背にこぼれた。

ぶるっと、何げなく、築地のうちの屋根の棟を振り向いた。

しかし、さっきの光りものも見えない。

何の異も見出せなかった。

だが、その時、彼の耳をつよくうったものがある。

生まれて間もない嬰児の声だ。

十八公麿が泣くのだった。

その声は、ただごとでない、地殻を割って、万象の芽が、春へのび出すような力のある、そして、朗らかな、生命の誕生を、世に告げるような声だった。

「あっ……」吉次は何ということもなく、竦(すく)みあがった。

両手で耳をおおって、暗い野を、後ろも見ずに駈けていた。

※「帙」=書物のいたみを防ぐために包むおおい。厚紙に布をはって作る