真宗講座浄土真宗の行(6月中期)「行」に関する定義

このようにみれば、諸先学が何に注意を払い、苦心を重ねて「行」の本質を求めようとしてこられたかが、ほぼ理解されるのではないでしょうか。

それは能行・所行両説が持つ諸難点の克服、逆にいえば、能所不二説を生ぜしめた原因ですが、第一に他力思想の顕彰という点が考えられます。

親鸞聖人の思想の特異性は、他力廻向義にあることはいうまでもありません。

したがって、それを強調すればするほど、自己の自力性は否定されなければならないことになります。

ここに、自己が仏名を称える力によって往生するという、称名正因の義が宗学によって徹底的に排斥された理由が見られます。

この故に、自力性をいかになくするかに最大の心血が注がれたのですが、こうして導き出されたものこそ「信心正因」の義に他なりません。

自己の称名が正因でないとすれば、仏廻向の大行を受領する信心こそがまさに正因だとされなくてはならないからです。

では、称名義はどうなるのでしょうか。

いうまでもなく、称名念仏は、善導・法然の中心思想であり、この行こそ両者にとって唯一の往因行でした。

そうすると、両者法脈を受け継いでおられる親鸞聖人も同様にその称名は重視しておられるはずです。

ここに次の問題として、称名念仏義の発揮が宗学にとって重要な課題になります。

信において往生は決定します。

それに加える称名の必要性とは何でしょうか。

それが「称名報恩」義の顕彰ということになるのだと思われます。

そうだとすれば、ここに「大行」⇒「信心正因」⇒「称名報恩」という図式が出来上がることになります。

では、この「大行」の物体は何でしょうか。

さて、「大行」を宗学で規定される基本概念のもとで成り立たせるためには、次のような前提が必要になります。

大行を衆生の称名に限ることはできません。

もしそうだとすれば、大行は衆生の称名をまって、はじめて成立することになるからです。

けれども、これは仏教(浄土教思想)の本義からいえば逆だといわなければなりません。

仏の大悲は衆生の心に先行するものだからで、衆生をして信ぜしめ行ぜしめる力となるものこそ、大行でなければなりません。

ここに、大行を衆生の称名に限定することのできない理由があります。

では、それは何でしょうか。

これこそ、衆生をして直ちに称名を行ぜしめるべき力となるもの、すなわち阿弥陀仏によって選択廻向せしめられた仏の名号だといわなればなりません。

したがってその名号は、単に画餅のように、固然たるものとして止まっているものではありません。

仏廻向の名号は、常に衆生をして、信ぜしめる働きの中にあるものだからです。

こうして名号は、衆生の心に受領された瞬間、それはそのまま衆生の称名として転化します。

けれども、この場合その大行は、必ず「信」を通さなくてはなりません。

信不具足の称名も大行だとすれば、自力の称名、あるいは道路謳歌の念仏もまた大行といわれることになるからです。

この故に大行が衆生の称名となる時は、信一念以後ということになります。

すなわち行の一念とは、衆生如実の称名を指しますから、そこに生ずる称名は明らかに信一念後でなければなりません。

信一念以後の称名とは、まさしく第十八願の乃至十念を指すことになります。

けれどもその称名は、同時に第十七願に誓われた「咨嗟称我名」と本質的に同一でなければなりません。

その法体大行の名号を通して生じたものこそ、第十八願の称名だからです。

こうして「一願建立」と「五願開示」の教義の中でも窺える、第十七願と第十八願の相即の関係が、「咨嗟称我名」と「乃至十念」との間で成立させられることになります。

以上の諸点を満足せしめるものとして、「称即名」「名即称」の円融思想、能所不二説が生じることになるのですが、果たしてこの思想は、親鸞聖人の念仏思想である大行義を真に体得した思想だといえるのでしょうか。

なるほど、能所不二説は論理形態としては、まことに巧妙であり緻密だと言えます。

したがって、これは一見、難題を見事に克服しているように見受けられます。

けれども、巧みに答えるということと、親鸞聖人の思想に即するということとは別問題だと思われます。

巧みさの故に、かえって思想の本質から逸れてしまうこともあり得るからです。

ここで、今日伝統宗学に対してなされている批判をまとめると、概ね次のようになります。

親鸞聖人の思想は、もっと迫力があり直截簡明です。

その言葉には、人の心を深奥から揺さぶらずにはおかない響きがあります。

それは真如にふれた叫びだと思われますが、その力を宗学はいったい保ちえているのでしょうか。

親鸞聖人の人生は、非常に行動的であり積極性に富んでいるのに、現代の真宗者は保守的であり実践はまことに消極的です。

それは親鸞聖人の「動的」思想を「静的」にしか受けとめることのできない教学のためだと思われます。

もしそれが教学によるのだとすれば、その教学こそ煩瑣な能所不二の教学を指すといえます。

では、完全と思われる能所不二説の、いったいどこに矛盾が宿されていると考えられるのでしょうか。

先に掲げた諸点の一つ一つに検討を加えながら、問題の所在を探ってみることにします。