小説・親鸞 2014年9月25日

梢のそういう恵まれた姿を見たばかりではない。

範宴は彼女とわかれて歩みだしながら考えた。

ふしぎな事のように思うのだ。

この黒谷の上人の門へ群れあつまる人々の姿にはみなその恵みがかかっている。

どの顔にも歓びと生活の幸(さち)が輝いている。

自分のごとく懊悩(おうのう)の陰影をひきずっている者はない。

心の見(み)窶(すぼ)らしさがあの群れの中では目立つ。

しかし、その時にはもう深い決意が範宴の肚(はら)にはすわっていた。

彼の姿はやがて叡山(えいざん)の森々(しんしん)と冷たい緑の気をたたえている道をのぼっている。

大きな決意を抱いて一歩一歩に運ぶ足だった。

「や、範宴じゃないか」

杉林の小道から出て来た四、五名の学僧たちが、眼まぜで、囁(ささや)き合いながら摺(す)れちがって、

「うふふ……」

手で口を抑え、次にすぐ、

「あははははは」

と大きく笑った。

範宴はふり向きもしない。

ただこの山の人間と黒谷の人々との持っている心の平常にいちじるしい差をすぐに感じただけであった。

かほど森厳(しんげん)な自然と、千年の伝統をもっている壇(だん)には、なんらの仏光を今日の民衆にもたらさなくて、市井の中のささやかな草庵の主(あるじ)から、あのような大道が示されているのは、何という皮肉であろうと思った。

(奇蹟が事実にある)

範宴はやはり今の世に生れてよかったと思う。

今の世に生れなければ、あの奇蹟は見られないのである。

法(ほう)然(ねん)御(ご)房(ぼう)にも会えないのである。

安居院(あごい)の聖(しょう)覚(かく)法印は、やはり嘘をいわなかった。

彼の心は急いできた。

といっても、先ごろのような焦(しょう)燥(そう)では決してない。

いそいそと明るいほうへ心は向いている。

大乗院へもどると、彼はすぐ麓(ふもと)へ向けて使いをやった。

使いは、青蓮院と、聖光院へまわった。

この一年ほど、まるでたましいのない廃寺のように、寂(じゃく)として、憂暗のうちにあった聖光院と、そこに留守をしていた人々は、思いがけない師の書状を手にすると、

 「お帰りになるそうだ」

 といって狂喜した。

 木(こ)幡(ばた)民部から性(しょう)善坊(ぜんぼう)につたえられ、性善坊はその報を持って、

「覚明」と、友の室へ駈けこんだ。

そして、

「師の房が、おもどりになるゆえ、迎えにこいというおてがみだ」

と告げると、覚明は、

「ほんとか」

と、眼をみはった。

よほどうれしかったのであろう、またそれほどに今日までの一日一日が憂(ゆう)惧(ぐ)の底であったにちがいない。

「よかった」

と抱き合って、ふたりは泣いた。